ITOI
ダーリンコラム

<ろくでもなさを許せる世界>


弾くわけでもないギターを一丁買って、
部屋に置いてある。
それを見てると、いろんなことを思うわけです。
今回は、「ギター見ながら思うことなど」を。

若いときに、バンドをやろうと
思いたったりする理由のひとつに、
「もてたい」という気持ちがあると思うのだ。
「いや、そんな気持ちは全然ないです」、
という人もいるだろうよ。
いるだろうけど、まぁ、オレなりに話を進めさせてくれ。

バンドだけじゃなくて、
野球やりたいだとか、サッカーやりたいだとか、
その動機のもとのところには、
「カッコいいと言われたい」だの「もてたい」という、
いわゆる「不純な気持ち」があると思う。

いろんなプロのミュージシャンたちが、
インタビューなどで、
「もてるだろうと思って音楽をはじめた」と、
けっこう正直に語っている。
それだけじゃない、とは思うけれど、
「もてたい」という気持ちがなければ、
いろんな「おたのしみの世界」は、
存続することが難しくなるだろう。

純粋に音楽をやりたい若者だとか、
野球の技術をどこまでも追求したい人だとか、
サッカーそのものに恋してるんだ、な青年とか、
きっといるのだろうし、いてもまったくかまわないし、
いや、実際、いてほしいくらいではあるのだけれど、
そういう人たちばかりになるのは、大反対なのだ。

「あらゆる動機は不純である」と、
20代のころに、ぼくはそういう文章を書いた覚えがある。
ようするに、思いきりなんでもない若者だった自分が、
いつでも立派でない動機からスタートしていたので、
他人もそうなんだろうと考えただけのことだった。
ただ、その「不純な動機」ではじまったことなのに、
だんだんやっていくうちに、
不純さが消えていってしまうというようなことが、
おおいにあるのだ。

ギターの神様と言われるようになっても、
きっとそういう人たちは、ギターの練習をしている。
そして、そうやってギターの練習をしているときに、
「もてたくてはじめた」動機のことなど、
きっと忘れているのだと思う。
でも、たぶん、
「おれも昔は、もてたくてギターをはじめた」
ということは、忘れてはいないのだ。
だから、これもたぶんだけれど、
「もてたいからギターをはじめる」坊やたちのことを、
「いいぞ、がんがん練習して、がんがんもてろよ!」と、
笑いながら言うにちがいないのだ。

そのくらいのいい加減さが、
音楽やら野球やらサッカーやら演劇やらの、
「おたのしみの世界」を、豊かにふくらませてきた。
ぼくは、いまさらながら、そう思うのだ。

だが、いつのまにか、
そういう当たり前の「不純な動機」を許す常識は、
消えかけているような気がするのだ。
たしかに、「不純な動機」は、不純である。
しかし、それが当たり前なのだ
という大人な理屈こそが大事だし、
だからこそ、世界が枯れないのだ。

「もてたい」ということよりも、
「思うようにギターが弾きたい」だの、
「サッカーを極めてみたい」だのということのほうが、
根本的で、重要なことのように思えるかもしれない。
けれど、ギターやサッカーの歴史よりも、
「もてたい」の歴史のほうが、何百倍も長いんだぜ。
サッカーボールなんてものが生まれてない時代から、
男は女にもてたいと思っていたのだ。
「もてたい」の根深さを甘く見てもらっては困るのだ。

若い人に、「ほんとに好きなものを見つけてごらん」とか、
気軽におとなたちが言うじゃなーい?
わかるわけないって、そんな簡単に。
「好きなもの」なんて、
定食屋であじフライを選ぶか、メンチを選ぶか
みたいなことじゃないんだから。

好きになれるほどギターを知る、サッカーを知る、
というだけのことでも、
けっこうやりこまなきゃ見えてこないものなのだ。
やりこませるまでの動機のところに、
「もてたい」だの「儲けたい」だのという
いわゆる不純な気持ちが必要になるわけだ。

なんだか、このごろのおとなたちは、
人間全体にも、若い人たちに対しても、
「りっぱさ」を要求しすぎているように思える。
もちろん、ろくでもない人も、しょうがねぇ若者も、
たくさんいるのはぼくだって知っているから、
厳しくしたい気持ちもわからないでもない。
だけど、その時代のムードのなかで、
説教されてしまうのは、いつも
ふつうの特に悪くもない若い人たちだったりするのだ。
ワルの諸君は、聞いてもいないからね。

ごくごくふつうの人間が、
誰にもできるわけではないような
「りっぱさ」を求められても、
生きるのが窮屈になるだけで、
力が発揮できなくなってしまうだろうと、ぼくは思う。
自分がいま、自殺することもなく、
曲がりなりにも、なんとかメシを食えるようになったのは、
「不純な動機」やら「さぼりたい気持ち」やら、
「正しいことをわかっていても、それができない心」、
などでいっぱいだったろくでもない青年の自分を、
叱りつけるような大人がいなかったおかげだと思うのだ。

人間は、あんがい、ちょっとずつましになるものだ。
いまの自分がましです、と言うのも口幅ったいけれど、
若いときは、もっとしょうもないやつだったとは言える。

社会は戦場ではないし、
みんなが勉強ができたわけじゃないし、
働きが悪くても飢え死にすることもないし、
規則をつくったからって守れるとは限らないし、
説教好きな人びとには、まことに怒りたくなる世界が、
昨日も今日もおそらく明日も、厳然として存在するけれど、
そういうものでしょう、もともと人間の世の中って。

ぼくは、思うんですよ。
やたらに人に対して怒っている人を見るとね、
こういう人が高い権力の位置に上ったら、
彼らの思う「どうしょうもないやつら」を、
皆殺しにしようとするんじゃないか、ってね。


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2005-01-31-MON

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