<わたしは遊び。わたしは芸術>
歌のうまい人がうまい歌をうたう。
それを、たくさんの人たちが見たり聴いたりして楽しむ。
野球のうまい人が野球をする。
人間のちからを超えるようなプレイが価値あるプレイで、
それをたくさんの人たちがたのしみに見ている。
ぼくらは、そういうことを当たり前だと思っている。
誰でもが歌えるような下手な歌は聴きたくないし、
下手な野球は見たくないと思っている。
だが、大岡本太郎は言う。
そんなもの、おもしろくもなんともないじゃないか、と。
歌のうまい人が歌うのを、指をくわえて見てるのも、
野球の上手な人が野球をやるのを、見て楽しんでいるのも、
岡本太郎にしてみれは、くだらないことだというのだ。
オソロシイ発言だと思う。
芸術家である岡本太郎は、
芸術についても同じ考えを持っているわけで、
絵のうまい人がうまい絵を見せるなんてことは、
くだらないことだと公言していた。
つまり、芸術家としての自分の存在について、
大いに否定しつつ、次々に作品をつくっていったわけだ。
矛盾である、と批判することもできるけれど、
すごいことだと、ぼくはいまさらのように感心してしまう。
太郎自身は、スキーが好きだったらしい。
たしかに、スキーは誰でもやりたいものがやる。
すべることそのものに楽しみが含まれている。
きっと、野球でも、そういう楽しみ方はあるわけだし、
歌を歌うとか、楽器を演奏するということも、
「自分がその遊びそのものになる」という楽しみ方は、
すでにあるはずなのだ。
いや、こんな感心のしかたをしているぼくは、
おそらくこれからも、平然と、
ぼくら人間の枠を超えたようなプレイを見たい、とか、
我ら凡人が8回生まれ変わっても到達しようのない境地、
だとか、スーパーマンたちを褒め称えることを、
思ったり言ったりするにちがいないのだけれど、
なんというか、宇宙のしくみとしては、
岡本太郎の言うことが全面的に正しいのだと思う。
人は誰も彼も、自分を主人として生きている。
誰も彼もが、自分の物語を生きている。
『冬のソナタ』で、いかにも素晴らしい恋愛を、
観客として楽しもうが、それは恋愛ではない。
自分自身が恋愛することのほうが、恋愛である。
たぶん、スポーツでも芸術でも、
そういうものなのだと思うのだ。
他人のする、とてもすぐれた表現や行為について、
尊敬したり、ほれぼれしたりすることが、
いけないということではないと思う。
しつこいようだけれど、ぼくはこれからも、
素晴しい才能のきらめきを目で追いかけ続けると思う。
さらに、鑑賞してくれと強要される
おもしろくもない作品を、見ることは苦痛である。
しかし、「自分がその遊びそのものになる」という
かけがえのないおたのしみを、
他人にさせてそれを代償行為としてたのしむ、
そういう「たのしみの分業」というのは、
人間の歴史がつくってきた不思議な文化だとは思う。
その不思議さを、不思議と思わずにはいられなかったのが
岡本太郎という人だった。
おもしろいなぁ、ほんとうに。
「ほぼ日」でも、ぼく個人でも、
岡本太郎のことを興味深く追いかけているけれど、
ほんとに、一筋縄ではいかない人ですよねぇ。
be TARO!
太郎になれ。
自分にも、そう言っている。
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