ITOI
ダーリンコラム

<十字架というアイコンのすごみ>

このごろ、つくづくすごいなぁと思うもの。
それは、キリスト教の「十字架」というイコンである。
そりゃ、前からそういうものの存在は知っていたよ。
「え、そのペンダント見せて見せて、
 わぁ、十字架なんだー。いいねぇ」というような、
そういう「素敵な」小さな彫刻像である。

横に一本の棒、それに交差するように縦の一本の棒。
交差する、という意味で「クロス」
漢字の「十」にも見えるから、
日本では十字架と呼ばれる。
実に、シンプルで、再現性が高くて、視認性も高い
ほんとうに「素敵な」デザインだと思うのだ。

この十字架が礼拝の対象とされているのは、
そこにある意味がこめられているからである。
「十」という文字が祈られているわけではない。
キリストであるイエスが、磔(はりつけ)された
いわば拷問の道具としてこの十字架があったのだ。
ここに、キリスト教の信仰の対象になるイエスが、
磔という刑罰を受け、殺され見せしめにされたわけだ。
(むろん、信仰の物語としては、
 こんな目にあっても三日後に復活したということが
 とても重要なのだけれど)
この十字架とは、礼拝の対象であるイエスの、
肉体に釘を打ち苦しめた道具であり、
イエスが敗者として見せしめにされた場所である。

現世的な、徹底した敗北の象徴が、十字架なのだ。
宗教のことだから、こういうアイコンのことを、
誰かデザイナーが創造したとかいうふうには
考えないのだとは思うけれど、
「敗北しきっている我ら」を、
礼拝の対象にしているという
とんでもない逆転の発想は、つくづくすごいなぁと思う。

日本にも、親鸞という鎌倉時代の坊さんの、
『善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや』という、
現世の価値観をごっそりひっくり返すような
すごい逆説の思想はあるけれど、
2000年も前の時代のキリスト教のアイコンが、
「現世での徹底的な敗北」を描いたものであるというのは、
いまさら度肝を抜かれるほどのすごみがある。
キリスト教の教典のなかには、
負けてる人間こそが天国での勝利者である、
というような思想はくりかえし語られているけれど、
自分たちの最高の親方が、
磔にされて殺され晒し者になっているという
アイコンのすごみには、言葉以上の表現になっている。

いま生きている人間は、いまの人間の考えることが、
これまでの人間たちが考え続けてきたことの、
最高の進化形だと思いこんでいたりする。
たしかに昔の人たちは、
病気の原因になる細菌の存在も知らなかったし、
コンピュータやらについて想像することもできなかった。
しかし、十字架を礼拝の対象とするような
魂のデザインについては、
いまの世知辛い「戦略主義的に進化した人々」には、
追いつけないくらいの高さを持っていたと思えるのだ。

そういえば、なのだけれど、
『地球大進化』という番組を見ていると、
これまでの地球上の生き物の歴史というのは、
まさしく「敗者たちの歴史」なんだよなぁ。
いつでも、次の時代というのは
ある時代に取るに足らない存在であった
「弱者」によってつくられていく。
その繰り返しなんだよなぁ。

さらにそういえばなのは、
強者中の強者のようにふるまっている
アメリカの大統領をはじめとする人々は、
これが、なんと、
キリスト教の聖書に手を置いて真実を誓うような
「十字架に祈る人々」でもあるはずなんだよねー。

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2005-02-28-MON

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