ITOI
ダーリンコラム

<ものあまり夢想>

とにもかくにも、
「ものあまり」「情報あまり」ということを、
いつでも頭の隅において考える必要があると思っている。

つくっているもの、売っているものは、
いくらでもあるのだ。
教えてくれる、見せてくれるという情報も、
次から次に泡ののように浮かび上がってくるのだ。

しかし、そんなにたくさんのものを
必要ないし、置く場所もない。

ぜんぶタダでやるから持っていけと言われたところで、
それを持って帰ってくるだけで大変なことだ。
仮にそのそれが段ボール箱に入っているとしたら、
ガムテープをはがしてフタを開けるのも面倒だ。
さらに、きっと中身はまた別の梱包がされているだろう。
それをまた開いて、それが「なんであるか?」を
調べる必要がある。
どういうふうに使うものなのか、についても、
知っておく必要があって、たぶん、
その説明書を読むのに、とんでもない時間がかかるだろう。
そいつを、どこに置くか、どこに仕舞っておくか、
あるいは、不要だと決めたとして、誰にやるか、
その誰かさんにいつどうやって渡すか?
そんなことを考えていたら、それだけで時間が過ぎていく。

なんでもかんでも欲しがる人というのが、
昔は笑いのネタになっていて。
「あの人は、病気以外はなんでももらいたがるよ」とか
からかわれたものだ。
さらに「出すものは、舌を出すのも嫌がる」とかね。
バーゲン会場で、安いからという理由だけで
いらないものをいっぱい買ってしまうというのも、
やっぱりものの足りない時代の心理だという気がする。

なんでもほしがる『クレクレタコラ』
というテレビ番組の主人公がいたけれど、
だんだん、それが「ありがたいやつ」に見えてくるかも。
無料で不用品を持っていってくれるやつ、だものね。

そんなふうに、「ものあまり」な現実感は、
実際、みんなが感じているはずだと思うんだけれど、
あんがい、「つくる側」に立つと
そういうことが見えなくなるような気がする。
例えば、よくテレビの通信販売なんかで、
同じようなものが「さらにもうひとつ付いて」というふうに
オマケとして付いてきちゃうのがあるけれど、
ああいうの「うわぁ、いらねーっ!」って思っちゃう人が、
ほとんどになると思うのだ。
(いま現在は、広めの家に住んでいる地方のお年寄りとか、
「ものあまり」前の時代にこころがつくられた人々が、
お客さんになっているからいいんだとは思うけどね)

「ものあまり」を前提に考えなきゃならない時代が、
さらに進んでいくと、どうなるのだろうか?
ちょっと冗談めかして言うのだけれど、
「ほしがる側」「受ける側」のほうが、
報酬をもらうような時代になっていくのではないだろうか。

すでに、そうなっている場面もあるのだから、
まんざら冗談とも言えないと思う。

踊りとかの芸事を習っている人たち、
「温習会」とか開催するのに、たくさんのお金をかける。
その日のために着物を新調したり、先生へのお礼だとか、
さらに、ぼくの知らないようなところでも、
いろいろなコストがかかっているにちがいない。
これは「送り手」がお支払いをする典型的な例だ。
これのもうちょっとスモールサイズなのが、
バンドやっている人たちが、
出演者たちがお金を出し合って会場を借りて、
赤字を覚悟しながら音楽をやってるケースだ。
著者が印刷や製本の経費を払ったり、
ある大量部数の買い取りをすることで出版することや、
習ってきた「蕎麦打ち」を披露するために、
酒や料理を用意して開くパーティなんかや、
例をあげていけば、
「ああ、もうとっくにそういう時代がきていた」と、
みんなに理解してもらえるくらいには、
「消費イニシアティブ」の時代は芽吹いているのである。

聴いてやる、読んでやる、見に行ってやる、
さまざまな芸を消費するお客さんたちは、
ほんとうはそんな気持ちであるにちがいない。
あるいは、
「見に行ってやるから、オレのときにも見に来てくれ」
というふうな物々交換的な考えがあるのかもしれない。
「受け手=消費者」であるかぎりは
王様のように「どれどれ味わってやるか」と、
落ち着いていられるけれど、
同じ人でも、立場が「送り手=生産者」になったとたんに、
買ってください、観てください、サービスしますよ、
というようになってしまうのだ。

いま、先に「消費イニシアティブ」になっているのは、
主に「表現」の分野である。
歌は、聴き手よりも歌い手のほうになりたいのだから、
歌う側がおごるということになる。
絵は、描く人がたのしいのだから
お金を払ってギャラリーを借りて、
パーティーの準備を整えて観客を待つ。
そういう感じになっているわけだ。
ちなみに、このテーマを描いた名作落語が
ぼくのフェイバレット『寝床』という噺である。

そういう分野と、他の分野はちがう、と、
思う人たちは多いだろう。
例えば、冷蔵庫をつくっている人たちが、
使ってくれる人たちにお金を払うなどということは、
ナンセンスすぎてありえないように見える。
しかし、ほんの一握りの人気商品は別として、
競争の激しいジャンルの商品の場合などは、
ほとんど儲けもなしにつくって、
サービス網を整え、お客さまをたのしませる宣伝をして、
やっと買っていただいているような状態にある。
ほれ、ケイタイ電話が、ほんとに10円で買えるなんて、
どう考えてもおかしいと思わない?
その後で使ってもらえたら通信料で稼げるというけれど、
稼げるのは電話会社であって、製造メーカーじゃないよね?
冗談のように言ってきていることが、
一部分では、現実になってしまっているわけだ。

この先、未来には、
つくった側が、使う側にお金を払う、
というようなことになるのか?
といえば、そんなことになるとは思えないけれど、
少なくとも、そういうようなことは多くなると思う。

どうせ冗談なのだから、ちょと夢みたいなことを言うと。
例えば、コーヒーを淹れるのが大好きな人がいるとする。
おいしいコーヒー豆を仕入れて、
さんざん吟味した道具を揃えて、
ていねいにていねいにおいしいコーヒーを淹れるんだ。
そして、それをお客さまに飲んでいただくわけ。
「どうぞ」と、店主は、500円とコーヒーを出す。
客は、「ああ、おいしい」とコーヒーを飲み、
ポケットに500円を入れて、帰るわけです。
「あんなにおいしそうに飲んでいただけて、
500円じゃ安過ぎたでしょうかね」などと店主の感想。
‥‥これじゃ、このコーヒー店、成り立たないと思う?
そうですよねぇ。
コーヒー店主は、実はふだんは外で稼いでいるのだ。
「コーヒーをたくさんの人に飲んでもらえている
ほんとうにおいしいコーヒーを淹れる人」として、
さまざまなレストランや鮨屋やらに行って、
それぞれの店でおいしく食事をいただいて、
それ相応のお金をもらってくるわけだ。
そうやって稼いだお金で、コーヒー店をやってるのだった。
そういう、「消費を軸にした経済循環」というおそまつ。
ちょっとおもしろいでしょう?

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2005-03-07-MON

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