<立ち小便のことを、ぶつぶつ>
たとえば、なのだけれど、
ぼくがいまここで、つまり、2005年3月13日の日曜日、
このインターネットのサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で、
こう書いたら、どういうことになるのだろうか。
昨日、夜中に犬の散歩をしていたとき、
近所の家の生垣に向かって立ち小便をしてやった。
上記の2行の文章はウソではある。
また、このごろのぼくは利口になっているので、
立ち小便をしたというようなことがあっても書かない。
なぜ書かないかといえば、
立ち小便は、最も有名な軽犯罪であるからである。
犯罪を犯しましたというようなことを、
誰が読むかわからないところで言うようなことを、
いまのぼくはしなくなっている。
立ち小便をすることは、もちろん自慢すべきことではない。
どんどんしたまえ、と人にすすめられることでもない。
みんなが立ち小便したら、どうなるの?!
うむ、たいへんなことになってしまうのでしょう。
ただ、正直な気持ちをあえていうと、
誰かがどこかで立ち小便をした、というようなことを、
ぼく自身は責め立てる気持ちにはなれないし、
いつか自分でもする可能性があるとも思っている。
しかし、立ち小便はあくまでも罪である。
六法全書を調べたわけではないけれど、
罪であって、おそらく罰も用意されている悪いことだ。
その犯罪について、
「大きな影響力のある」「有名人」であるぼくが、
寛容な態度であることを、「喧伝」したならば、
「どれだけ大きな社会的影響力があることでしょう」
というような意見があってもおかしくないと思う。
これまでも、ぼくはさんざん正しからぬことを言って、
たくさんの苦言を受け取ってきた。
言ってくる人がまちがっているわけじゃないから、
どうしても「これからは気をつけよう」と、
思ってしまうものだ。
健全な社会に対する破壊的な思想を持った人物、
ではないのですからね、ワタシは。
おかげで、ぼくは、
公式には、立ち小便を認めない人になってしまった。
書かないでしょう、きっと、これからも。
「立ち小便をした」だとか「いいじゃん、立ち小便」とか
書くことはなくなると思う。
だけれど、キャンプかなんかで山に入ったとき、
どう考えても誰にも迷惑にならない
絶好の立ち小便ポイントだらけだよね。
そこでもしないか、と言えば、もう、これは
「絶対にします、オレ!」である。
そういう場所ですることが、法に触れるのかどうか、
よく知らないけれど、することはするだろう。
しかし、おそらく、山奥で立ち小便をした翌日にも、
「昨日は星空を見ながら立ち小便をした。
雪におれの体温が吸い込まれていった。
おれの熱と山の冷えた空気が衝突して、
そこに火事現場のような湯気が立った。
男に生まれてよかったと思えるのは、
こんなときくらいしかなくなったなぁ、思えば」
なんてことを気持ちよさそうに書くことは、ない。
ひとりでもふたりでも、
「犯罪の助長とも言える」だの「社会的影響力の」だのと、
言ってくる人がいるかもしれないと思うと、
もう、めんどくさくなってしまうのだ。
書いて得られるジャッカンの快感と、
見ず知らずの人間に正しき説教をされる不快感とを、
比べてみたら、コストが高すぎると思ってしまうのだ。
「して悪いか!」と開き直るほど、
ぼくは立ち小便を愛しちゃぁいない。
このような次第で、ぼくは書かなくなる。
立ち小便をしたとか、してもいいじゃんとか、
あらゆる場所で書くことをしなくなるわけだ。
しかし、ほんとうのことを言って、
立ち小便をした、とか、してもいいじゃん、
とか、考えてはいるのだ。
なんだって、そういう側面はあるのだけれど、
かつて俳優さんが言ってしまって、
おおいに顰蹙(ひんしゅく)を買った言い方に
なぞらえて言うならば、
「立ち小便は文化だ」と言うことだって可能だ。
不要になった水分を放出することも、
体内にためていた熱を排出することも、
どちらも気持ちがいいに決まっている。
それは、貯めていたお金を使うような快感だ。
海浜にせっせとつくった砂の城を、
波が押し流してしまうのを心待ちにするぼくらは、
気持ちのいい放尿を、ほんとうは強く望んでいるのだ。
その快感を、より大きくしたいと考えて、
決まり切った、小便を管理しやすい場所に立ち、
粛々と放尿するよりも、
大自然を感じられる環境に立ち、
空を眺め宇宙を感じながら立ち小便をしようとすることは、
それはそれで、文化であると言えば言えるだろう。
だが、それを言うと、はからずも
それを実行しようとする人が現れないとは言えない。
「そうだそうだ、イトイも言っていたっけ。
立ち小便はいいよなぁ。文化だよ、アートだよ。
大宇宙との合一だよ、ユニバースのダンスだよ。
じょじょじょじょ〜〜〜〜〜〜〜」
とか言って、そこいらへんでする男も登場しかねない。
世間には、立ち小便の名所のような場所があって、
「ここで立ち小便しないでください!」というような
立て札があったりする。
された側は、ほんとうに困るのだ。
臭いし、不衛生だし、
自分の領域を穢されたような気持ちになる。
で、さんざんそういう目に合っている人が、
上記の、例としてぼくが書いたような
「立ち小便は文化だ」という文章を読んだならば、
なにを言っているのですか、と、
「社会的な影響を考えてください」と、
ほかほか湯気の立つ小便のような怒りをぶつけてくる。
その人の立場を考えたら、もっともな怒りではある。
もっともだ、ということを心から納得してしまったら、
こんどは、立ち小便については、
はた迷惑で不潔で破廉恥な行為である、ということしか
表現できなくなってしまう。
こんな「立ち小便なテーマ」は、いくらでもある。
あちらを立てればこちらが立たず、
こっちが正しいなら、そっちは間違っている、
ほとんどの人がこう思っていても、
そう思われては困る人がいる、
などなどなどなど、ひとたび立ち止まったら、
そこから一歩も動き出せなくなるくらいにたくさんの
表現のジレンマがある。
自分がホームページを開いていたり、
ブログで何かを書いていたりする人なら、
きっと思い当たることだと思うのだけれど、
こころならずも人を傷つけてしまうような発言を、
してしまうことも、必ずあると言っていいだろう。
また、傷つけられたほうの人が、また別の人を
傷つけることだっていくらでもあるはずだ。
そんなことを考えていると、
あらゆる人に「つっこまれないように」と、
いわゆる官僚的な「絶対安全な表現」が身に付いていく。
たぶん、ぼく自身も、
静かに変化してきているのだろうと思えるのだ。
よく言えば、いろんな方面の人に思いやりのある、
やさしい文章を書くようになっているのだろう。
ルールや、マナーに合わせて文章を書いているうちに、
ルールやマナーに合っているかどうかについて考えるのが、
なによりも大事なことのように思えてくる。
それも、ほんとうは、おかしなことなんだよなぁ。
世の中には、あんまりよくないことがいっぱいある。
それをなんとかしようと思う人たちが、
警鐘を鳴らしたり、注意を促したり、叱ったりして、
よりよい社会をつくろうとしているのだけれど、
はたして、どうなんでしょう。
逆に、そういう正しく健全ばかりが表現される社会に、
おもしろくないと思う人たちは、
わざとらしく「悪いこと」を言ったりするようになる。
堂々めぐりなのだ。
ぼくには、正直言って、この問題の答えがわからない。
秋に、次々に落ちてくる枯れ葉のように、
日々、なにかしら誰かに迷惑をかけるようなことがあり、
人に不公平に接するようなことがあり、
しまったとばかりに放屁してしまうようなことがある。
しかし、ずっと落ち葉を掃いているわけにはいかない。
かなり悩ましい気持ちで、
インターネットをメディアにした表現を続けている。
こんなぼくが、ひとつだけ持っているものさしがある。
「この表現を、落語のなかの登場人物に言わせたら
しっくりくるかどうか?」
そいつでも正しいことをできるはずのない自分が、
このくらいなら、なんとか守っていけそうに思える。
そのものさしを当ててみると、実は、
立ち小便については、
「立ち小便をしてたら、そこに犬がよ‥‥」
という具合に、許されるということになるのです。
しかし、それはそれとして、
ぼくは、昨日、立ち小便しておりません。
金曜日の午後に、滋賀県のある山で、しましたが。 |