<自分のもの?>
「自分のもの」だと思っていることが、
実は「自分のもの」じゃない、ということは多い。
たまに、暗いニュースとして、
無理心中という事件が伝えられることがある。
ある人間が、誰かを道連れにして自殺するというやつだ。
これは、ふつうに考えたら、殺人だろう。
殺人者が、絶対に捕まらない場所に
逃げてしまうようなものだ。
たぶん、親が子どもを巻き添えにする心中事件などでは、
その親は、自分の子どもを
「自分のもの」と考えているのだろう。
人間は、誰かのものではない。
恋愛のなかで、
「わたしはあなたのもの」というような表現があるが、
それは、ある種の「酔い」を共有しようという意志だ。
実際に、わたしはあなたのもの、であるとは
誰も思ってない。
酔いが醒めたら、誰かが誰かに所有されるなどということは
ありえないとわかってしまうだろう。
人間は誰かのものではない、ということに、
例外はあるのだろうか?
これから先に、思いつくのかもしれないが、
どうやら「ない」と言えそうだ。
『悪人正機』という本の取材をしている過程で、
吉本隆明さんが、こんな話をしていたのを思い出す。
水難事故で死の近くをさまよった末に、
からだが不自由になって、
なにもかもが思うようにならなくなり、
やはり「死んでしまおうか」ということも考えたという。
しかし、それについてよくよく考えたら、
「死は自分に属してないものなのだ」と、
気づいてしまったらしい。
「死というのは、
自分が勝手にどうこうできるものじゃなくて、
自分以外の人たちの意志が非常に大事になるんですね。
自分以外の人っていうのは、主に家族ですが。
死というのは、自分に属してないんですよ」
という話を、もう「考え終わったこと」として
語ってくれた吉本さんの表情は、忘れられない。
ぼくは、もっとじょうずにこのことについて
説明したい気持ちはあるのだけれど、
これ以上じょうずに言い直すことができない。
悪いけれど、あなたがわかった日に、
勝手に「わかった!」と言ってください。
死が自分に属してないということは、
生そのものが、自分の所有でないということでもある。
自分以外の誰かのものであるはずもなく、
自分のものでもない。
それが人間のいのちというものなのだと、ぼくは思う。
ここで風呂に入ってしまったら、
なにが書きたくてこんなことを書きはじめたのか、
わからなくなってしまった。
たしか、あちこちで、
いろんなものを「自分のもの」のように語る人々が、
目立っているからなのだと思うのだ。
ラーメン屋でラーメンを食っていたお金持ちさんが、
「いくらだ?」と言ったんだそうだ。
「650円です」みたいな答えが返ってきたら、
「そうじゃなくて、この店がいくらだって訊いたんだ」
と、そのお金持ちさんが言ったとか。
これは、ずいぶん昔に、ゲームソフトの会社が
ぶいぶい言わせていたころに聞いた話なんだけれど、
いまのほうが、もっとスゴイよなぁ。
ラーメン屋って、ほんとに買えるのかな?
ラーメンのおいしさや、ラーメンの客や、
ラーメンをつくるための意地や、そういうものも含めて、
ラーメン屋だと思うのだけれど、
それって、買えるのか?
さらに言うと、そのラーメン屋というものが、
そこの店主の「自分のもの」である分というのは、
ぜんぶじゃないんだろうな、とも思うんだよなぁ。
いや、社会的責任とか、そんな硬いことじゃないのだ。
自分の死さえも、自分に所属するものでない、
というような、とても複雑な関係のなかに、
一軒のおいしいラーメン屋もあるんだろうなぁと思うのだ。
終わりにしようと思ったのだけれど、
なんかうまく説明できなくて、じれったいな。う〜む。
どこか、よそに、とても素敵な奥さんがいるとします。
その奥さんを、彼女の夫から切り離すことに成功して、
自分の女房にしたとしますよね。
その場合も、元のとても素敵な奥さんであるかと言えば、
そんなことはない、でしょう?たぶん。
「自分のもの」になるなんてことは、ないんですよね。
その奥さんの素敵さは、彼女の前の夫との関係のなかに、
存在していたということですから。
あんまりしつこく鈍な刀を振り回していても、
きりがないので、このへんにしておきます。
毎度のことながら、ぐずぐずですみません。 |