ITOI
ダーリンコラム

<また、Only is not Lonely.のこと>

「はやいはなしが、
 俺がイモを食ったら、おまえが屁をするか?」
というのは、「フーテンの寅さん」の名セリフだけれど、
「俺がイモを食ったら、おまえが屁をするかも?」と、
人間は考え違いをしやすいものだ。
だからこそ、寅さんが、わざわざ
わかりやすく言ってくれるのだ。

ま、そんなにくそ真面目にいうのもヘンだけれど、
この寅さんのセリフというものを、
ぼくは、「人間はそれぞれが本人である」と
訳しているような気がする。
人それぞれ、いろんな解釈があるのだろうけれどね。

とにもかくにも、本人にしかわからないことだらけなのだ。
どんなに親しいともだちが失恋したとしても、
その切なさ、その悲しさは、本人のようにはわからない。
「自分のことのように悲しい」とか、
「自分のことのようにうれしい」というけれど、
それは本人の悲しさ、本人のうれしさとは別のものだ。

もっと極端な例が、死である。
生きている人は、死んだ人の気持ちにはなれない。
ま、死んだ人に気持ちがある、というのもヘンだけど。
死んだ人のことを想って、何日泣いたところで、
だんだんと涙は枯れてくるし、食事もするようになる。
やがて、その死んだ人の存在しない世界で、
生きていくことを理解するようになる。
そういうものだし、そういうふうにできている。

人と人とはわかりあえない、と、
乱暴に言いたいわけではない。
同じじゃない、ということを忘れたくないということだ。
誰も、たがいに本人にはなれない、という事実を、
謙虚に認め合って生きることが、
とても大事なのだと思うのだ。

花粉症の知り合いを、「つらそうね」と思いやる。
優勝の美酒に酔うスポーツ選手のよろこびに共に笑う。
途方に暮れる幼子の心を想像して、おろおろする。
すべて、人間だからできる想像力のおかげだ。
これがあるから、生きることがずいぶん助けられる。

でも、と、フーテンの寅さんは、あえて言いたいのだ。
「ぜんぶを想像できたと思うなよ」と、
「それは思い上がりだよ」と、言っているのだ。
本人は、ひとりしかいない。
その本人のことを、
わかったような気になっている別の本人は、
これまたさらに別の本人とは別の人間だ。

人と人とは、ほんとうにはわかりあえない、
と知る謙虚さがあって、はじめて、
たがいに親切になれるんだと思う。

Only is not Lonely.
みんなが本人として、生きる。
みんながほんとうは他人を理解しえないと知る。
だからこそ、親切は生まれる。

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2005-04-18-MON

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