<弱い力>
自然界には4つの力があるのだそうだ。
重力、電磁気力、そして弱い力と、強い力なんだそうだ。
物理学を多少でも知っている人には、
ものすごく当然のことなのかもしれないけれど、
ぼくは学校で習ったおぼえもなく、
ずっとおとなになってから、
テレビのエンターテインメント科学番組ではじめて聞いた。
重力、電磁気力、そして弱い力と、強い力。
‥‥だって。
なんか、気に入っちゃったのだった。
なんだか揃ってない感じがするじゃん。
方角には、「東、西、そしてあっちと、こっちがある」
と言われているようなかゆい感じがある。
物理に詳しい人にとっては、なんでもないことだと思うが、
素人にとっては、
この「強い力」「弱い力」というネーミングが、
どうにも心のなかで座りが悪いのだ。
実は、この4つの力についての知識は、ぼくにはない。
しかし、なんだかこの、公式な言い方としての
「強い力」「弱い力」という名前が気に入っているのだ。
今回、この短い文章のタイトルになっている
「弱い力」というのは、物理の専門用語ではない。
ではない、ということを確認してもらうだけのために、
ここまでの前置きが必要だったというわけだ。
さてさて、ぼくが言いたい「弱い力」というのは、
オフィシャルな意味なんかない。
定義さえもあいまいなままである。
ぼくが、ここ一年くらい勝手にイメージをしているだけの
いわば「オレ語」である。
反対語は「強い力」ではあるのだけれど、
もっと広い意味での反対語は「力」である。
これまでの「力の論理」に対して、
さまざまな「そうでない方法」が考え出されてきた。
愛、と名付けられたりもした。
北風に対する太陽のたとえで語られることもある。
きっと、ぼくが思うのも同じようなことなのだけれど、
自分なりにそれを「弱い力」と呼んでみたいのだ。
ぼくが最初に「弱い力」というイメージを持ったのは、
指圧について考えているときだった。
もう15年ほど前になるけれど、
ぼくは温泉地の旅館にあるような
でっかい椅子型の電動マッサージ機を衝動買いした。
ぼく自身が肩や首や腰が凝るタイプだし、
会社に置いておいたら、みんながよろこぶぞと思った。
ご想像どおり、最初のうちはみんながここに座った。
うれしそうにスイッチを入れ、にこやかに目を閉じた。
やがて、誰もそこに近づかなくなり、
たまに当座の物置のようになり、
そして露骨に邪魔にされるようになり、
引き取りたいという者もないまま粗大ゴミになった。
人がもんでくれたり指圧してくれたりすることには、
機械にもまれたり指圧されることとは、
なにか大きなちがいがあるのではないかと思った。
そして、あるとき、こういうことかな、と考えついた。
機械が圧す場合には、指先がわりのパッドが
圧すべき場所にたどり着くまでは断固として圧す。
10の深さのところまで圧すとなったら、
当たり前のこととして、10まで圧すのだ。
しかし、人が指をつかって指圧をする場合には、
10の深さまでただ圧すというわけではない。
10の点に限りなく近づいたところで、
そのまま10まで進むべきか、
9.95のあたりで止めるべきか、
9.99まで行ってしまうのか、
瞬間的に10.001あたりまでつっこむのか、
というようなことを探っているのだ。
どこまで行くかは、
反発されている圧される側の凝りの強さに
「聴く」ことで決まっていく。
すっかりややこしい言い方になっているけれど、
人間の指でやる指圧の場合は、
圧していくうちにどこからか、
圧すのではなく、凝りのほうから圧される、
つまり「退く」ということをやっているのだ。
人間の指圧の
「圧す」のなかには、「退く」が含まれている。
肩や首の凝る人は、自分でいちばん凝ってる場所を
圧してみると理解しやすいと思うのだ。
指がぐっと深く進んでいくのは途中までで、
そこからは軟着陸のようにゆるゆるになっていって、
仕上げのところでは、凝りに軽く圧させているという感じ。
これを、その後
ぼくは「弱い力」と勝手に呼ぶようになったのだ。
弱い力も、力の一種だとは思うのだが、
あきらかに強い力とは言えない。
よくよく考えると、力とも言いにくいとさえ思う。
その人間の指圧のイメージが、いいなぁと思って、
その後もちょくちょく、感覚の比喩として
この「弱い力」のイメージを
応用して考えるようになった。
『北風と太陽』の寓話のように、
すばらしいオチも切れ味もないのだけれど、
「弱い力」という考え方からすると、
ここはどういう行動をとったらいいのだろう、
というようなことでは、ほんとうに役に立つ。
ここで、いろんな例をひいて、
こういう場合に「弱い力」をこう使うのさ、
なんていうことを書くのは、むつかしい。
例えば、ねぇ‥‥。
仮にあなたが仲のいい友人や恋人とケンカしたとする。
「ケンカはやめろ!」と、先輩に怒鳴られても、
やめられないと思うのだ。
「ケンカを続けたら、殴るぞ」と言われたら、
もっと話がややこしくなる。
でも、そのケンカとは何の関係もなく、
どこかの家からとても気持ちのいい音楽が流れてきたら、
ふと、ケンカしているのが、
バカらしくなっちゃったりするかもしれない。
この場合、音楽が「弱い力」として働いたというわけだ。
ぼくが、大学を中退しようと決意したのは、
下町の家の前にある粗末な花壇を見た時だった。
発泡スチロールのトロ箱に
平凡な草花が育っていた。
そばに金魚鉢の水を取り換えている人が、いた。
「毎日のことをやっている人がいる」と、
その時、初めて知ったような気がする。
天下国家のことを考えているつもりの自分が、
煙のような存在に思えたのだった。
あの花壇と金魚鉢は、「弱い力」を持っていた。
先日、ぼくは『今日のダーリン』で、
煮込み料理の弱火について書いたけれど、
そこでも、「弱い力」のことを考えていた。
肉や野菜をびっくりさせないような温度で、
ずっとつきあっていくと、味がしみ込んでまるくなる。
(あ、そのときはさままざまな助言メールいただきました。
おかげで「スロークッカー」を買いました)
言ったように「弱い力」の定義も、意味も、
ぼく自身がよくわかっていない。
あいまいなままである。
「受け取る側の必要に応じて加えられるのが弱い力」
とでも、仮に思ってはいるのだけれど、
こんな仮の定義の範囲に収まっているようでは、
ほんとうの「弱い力」らしくないようにも思う。
こんなことをぐだぐだと書いているそばで、
犬が腹をうえにして熟睡している。
彼女がいちばん「弱い力」を発揮しているのは、この時だ。
ものすごいスピードで走っている時でもなく、
テレビ画面のなかに映る動物に向かって
強そうに吠えている時でもない。
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