<手というもの>
「人体の斥候」と呼べるような部位がある。
斥候とは、敵陣に先乗りして状況を調べる兵士だ。
斥候の情報を元にして、本隊が敵陣に入っていくわけだ。
最小限の人数で何があるかわからない敵地に
侵入するのだから、ほんとうに危ない仕事だと思う。
見つかってしまったら、当然、命の危険もある。
仮に斥候が命を落としたとしても、
弔ってもらえるかどうかもわからない。
失敗したら、存在さえなかったものとされてしまう、
そういう可能性がある。
斥候は、首尾よく重要な情報を集めたり、
敵陣のかく乱を謀ったあげくに、
後から乗り込んだ本隊と合流してはじめて、
その「軍隊の一員」になれるわけだ。
つらい存在だよなぁ、と思う。
ある種、冒険的で自己犠牲的で、
誇りある仕事なのかもしれないけれど、
なかなか根性のいる役割だ。
ぼく自身は、けっこうこの斥候ってやつに憧れがある。
と、そんな斥候のような立場にあるのが、
人間の手というものだ。
たとえば、目の前にあるお茶が熱いか温いか、
知りたいときには、人間は瞬間、
手でそのお茶に触れてたしかめる。
これがお茶だからいいようなものの、
もっと得体のしれないものだったら、
ただ単に熱いということではすまされない。
うまい例を思いつかないんだけれど、
なにか放射性物質だとか、硫酸みたいなものだとか、
そういうものが日常のなかに現れた場合、
手で触ってしまう可能性はおおいにある。
真っ暗やみを進むときにも、
手を前に出して、なにか危ないものに触れたら止まる
というような姿勢で前に行く。
触れたものを溶かしてしまうような妖怪が、
スルドイ釘がウニのようになってるものが、
どろどろとした汚い臭いものが、
暗やみのなかに待ち受けていたとしたら、
手は、それに触れてしまう。
そのとき、手は、やけどするかもしれない。
皮膚が破れ出血するかもしれない。
汚い臭いものでべとべとになるかもしれない。
しかし、手だけがそういうひどい目に遭えば、
手以外の「自分」は、危険を回避できるというわけだ。
そう、つまり手は、斥候の役割をしている。
しかし、手だって「わたし」の一部分のはずだ。
口や目が自己であるように、
手だって、自己に含まれているわけじゃないか。
それなのに、「わたし」は、
暗やみを歩くときの先頭の役割を手にさせる。
どんな危険があるかもわからない場合にも、
手だけはどうなってもいい、とばかりに、手を前に出す。
手が熱いお茶でやけどしても、
「ああ、こんな熱いものを飲まなくてよかった」
というような安心感を抱いたりするかもしれない。
手は、どうなってもいいのか?!
手が犠牲になって、「わたし」の危機を回避する?
手だって、「わたし」だろうが?
人間にとって、手というものは、
なにかとても不思議な意味を持つもののようだ。
いわば、「自己でありつつ自己でない部位」というような。
これが、魚の場合だと、まったくちがう。
手のような遠隔操作をする器官がないものだから、
なにもかもを口でやるのだ。
エサを食べるのも口、ものを運ぶのも口で、
敵を攻撃するのも口で、
すべて口を使ってやっている。
だから、釣りという遊びが成り立つんだけどね。
口に「わたし」を釣り上げるハリをくわえたら、
そのまま「わたし」は釣り上げられてしまうのだ。
口と「わたし」は、一体なのだ。
見ていると、犬という動物も、
あんまり、手を斥候として使っていないようだ。
彼らは、顔を手のように使っているのである。
鼻で嗅ぎ、口先で押し、掘り‥‥
とにかく頭から突っ込んでいく!
魚でも犬でも、「わたし」まるごとで、
見ず知らずの次の瞬間に向けて生きている。
しかし、人間は、手という、
「わたし」であり「わたしでない」ような
あいまいで便利な器官を持っている。
石川啄木が「じっと手を見る」と詠んだのも、
手がそういう不思議なものだからだったのかもしれない。
おにぎりを、手以外でつくったとしたら、
食べる気になれないと思う。
手で自分の肩をもんだ場合、自分の意識は、
「ああ、いい気持ち」と、肩の側にあって
手のほうにはない。
人が、手と手をにぎりあったとき、
ふたつの川がつながったかのように、
気持ちがどうどうと流れあう。
手づくり、手がかかる、その手があった、
お手付き、手を切る、手前、手がかり、手塩にかけた、
手にする、手厚い、手当て、手探り‥‥。
「手」で思いつくことばをならべるだけで、
手のもっているさまざまな意味が見えてくる。
あ、触手!
昆虫の触角のように、センサーとしての手。
これが斥候のたとえなんかより、
実際の手の役割に近いものなのかもしれないな。
子どものころから、ずっと、
ぼくは手というものが妙に好きで、
こんなことをずいぶん考えていました。
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