<地上100メートルの見切り>
ぼくは、20歳のころにアルバイトで
工事現場の足場の板をかける仕事をしていたことがある。
とび職の見習いみたいな仕事で、
風の強い日などには、高いところの仕事はなかなか怖い。
同じ作業を地上でするのは、
難しくも何ともないのだけれど、
それを高いところでするとなると、まったくちがってくる。
幅1メートルの板の上を歩くことについては、
高さ100メートルでやっても、
地上すれすれでやっても、ほんとうは同じだ。
では実際に高さ100メートルの上空で、
幅1メートルの板をすいすい渡れるかといえば、
おそらくできる人は、ちょっといないだろう。
「ほんとうは同じだ」ということを、
身体とこころに納得させられたら、
高さ100メートルの上空での板渡りは、
きっと簡単にできるだろう。
いまはもう元に戻っているかもしれないけれど、
そのアルバイトをして以来、
ぼくはあんまり高いところを怖がらなくなっていた。
地上も地上100メートルも「ほんとうは同じだ」と
身体がわかっていたからだ。
この「ほんとうは同じだ」を、人はどうやって知るのか。
そこらへんについて、ふと考えたのだった。
きっかけは、『じゅんの恩返し』という連載だった。
みうらじゅんが、
いろいろとお世話になったものに
恩返しをするという企画だ。
その対象のなかに「糸井重里」という回がある。
いつものように、かなりの誇張や曲解を含めて
「イトイさんはコワイ」だの「尊敬してる」だの、
名調子で語ってくれているのだけれど、
ネタにされている「イトイさん本人」として、
自分がみうらじゅんに何をしたのだろうか、と、
ふと考えてしまったのだった。
恩返しをされたらもうしわけない、というなことも、
案外、あるかもしれない。
かといって、ほんとうに何もなかったと知るのも
ちょっと残念な気がする。
で、苦し紛れのように思いついたのが、
この「見切り」ということだった。
学生だったみうらじゅんが、
ちょっといい気になってたくらいの時期の
先にオトナになっていた「糸井重里」というやつの近くで、
いいことやら悪いことやらに付き合っていたら、
学生の高さでない高度を経験することになる。
順に階段を上るようにでは何年もかかる高度に、
むりやりに上らされることで、
おぼえることがあるのだと思う。
その高さをおぼえると、それ以下の高さが怖くなくなる。
そして、怖いものが減ると自由度が増すのだ。
学生のころに、30代半ばの「糸井重里」の行く場所に
ついて行ったみうらじゅんには、
その後、いろんな人やモノゴトに出合うとき、
いちいちその高さにくらくらしたりしなくて済んだはずだ。
つまり、ぼくのやっていることや考えていることも、
実は学生のみうらじゅんがやっていることと、
たいしたちがいがあるわけではなく、
ただ単に、高いところでやれているだけなのだ、と、
彼は「見切る」ことができたのだと思う。
たぶん、世の中のほとんどの
先輩やら先生という「先の字のつく人間」というのは、
若い人を、高いところに、
無理やり乗せる役割を持っているのだと思った。
ぼく自身も、数々の先に生まれた人たちに、
ひょいっと高いところに乗っけられたし、
遠くに連れていかれてひとりにされたものだった。
そうやって、ぼくも「見切り」をおぼえていったのだ。
地上に置かれた板を渡るように、
100メートル上空の板を歩けばいい。
それを、わかったら、みんなが
持ってる力をたっぷり発揮できるようになる。
それを伝えることは、
みうらじゅんが学生だったときから、
ずっとぼくの仕事だったような気がしている。
いまでも、「ほぼ日」でやっているのは、
そういうことが多いと思うのだ。
だって、たとえば『社長に学べ!』を読んでいたら、
中途半端な上役の怖さが、だいぶん減ると思うのだ。
「ほぼ日」を毎日読んでくれたら、
いろんな場面での「見切り」がうまくなります、かしら?
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