<境目のない遠近両用のモノゴト>
「境目のない遠近両用メガネ」というものがある。
最近は、ぼくもそれを便利に使っているのだけれど、
かつての遠近両用メガネには境目があったのだった。
近視だから、遠くのものがよく見えない。
だから、近視用のメガネをかける。
これは凹レンズでできているはずだ。
で、そういう近眼の人間も「老眼」になるものなのだ。
こんどは近くのものがよく見えない。
特に本などを読むとき、おおいに不便する。
だから老眼鏡をかける。
二枚目風に「読書メガネ」とか言ってもいいけど、
要するに近くを見るための凸レンズである。
凹レンズと凸レンズが、ひとつの目玉の前にある。
主に下の方を見るときには、凸レンズの老眼鏡。
遠くを見るときには凹レンズの近眼鏡を使う。
ふたつのレンズは、まったく別の役割をしているし、
兼用などできないレンズなのだから、
境目はどうしても必要になるだろうと、
ぼくは思っていた。
しかし、このごろは、コンピュータを使った
「キャド」ってやつが設計やら製図やらをしてくれるので、
非常に複雑な彫刻をつくるように
「境目のない遠近両用メガネ」ができてきたということだ。
こんなに長く「境目のない遠近両用メガネ」について
語るつもりなんかなかったのだった。
ほんとうは、いろんなモノゴトが
「境目のない遠近両用」になっていくよなぁ、
という思いつきを書きたかっただけなのだった。
あなたがいま何かの職業についているとして、
仕事のために読む本と、個人的な興味で読む本と、
しっかり境目はあるだろうか?
ビジネス書と小説、みたいな分類なら
境目がつけられそうだと、つい思ってしまうのだが、
いやいや、そんなことはない。
村上龍さんの小説なんて、
ビジネス書のダイジェストみたいなところもあるし、
それを想像力のころもをつけて天麩羅にした
みたいなものだったりするわけで、
小説だから仕事に役に立たないなんて、言えない。
じゃ、それを読んでいる時間は仕事として
カウントしていいのだろうか、といえば、
それはそんなふうには言えないようにも思う。
ほれ、それは「境目のない遠近両用本」だろ?
逆に『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』なんて本は、
ビジネス書のかたちで世に出ているけれど、
「トリビア」を楽しむために読んでいる人だって、
いくらでもいると思う。
これも「境目のない遠近両用本」だ。
いや、こんなふうに例をあげる必要もない。
ほんとうは、あらゆる本が、いまの時代の仕事にとっては
「境目のない遠近両用本」であるとも言える。
それどころか、映画もゲームも舞台も遊園地も、
レストランも、恋愛も、嫁姑の諍いも、ケンカも、
なにもかもすべてが、仕事の役に立つ。
そう言い切ってもいいと、ぼくは思うのだ。
しかし、だからといって、
「これからひと月、みっちり遊びに行くんで、
給料のほうよろしくお願いしまーす!」と言われても、
そりゃ困っちゃう。
これからの「働くこと」のイメージは、
ますます「生活そのもの」との
境目のないものになっていくだろう。
「遊びが仕事になるんだから、たのしくていいや」
とも言えるのだけれど、
「あらゆることが、仕事にからめとられていく」
というような不愉快が浮かび上がってくるかもしれない。
「クリエーション」と「リクリエーション」、
「都市」と「農村」、「男性」と「女性」、
「個人」と「組織」、「発明」と「改良」、
「生産」と「消費」、「プロ」と「アマ」、
「理科系」と「文科系」、「富裕」と「貧困」、
「おとな」と「こども」、「実業」と「虚業」。
間に境目のあったいろんなモノゴトが、
すべて「境目」をなくしている。
「都市と農村」が一体化したような町なんてものが、
あってもいいだろう。
パンツファッションで仕事をする女性たちは、
昔の人の目からは男みたいに思えるのかもしれない。
いろんな例を想像しながら、
「境目のない遠近両用メガネ」的なものについて、
考えて遊んでください。 |