ITOI
ダーリンコラム

<規律正しさは、強くはない>

何年も前から、高校野球の選手たちは、
ずいぶんよく笑うようになった。
悲壮感や、危機感を表現しながら
野球をやる少年たちは、いつのまにかいなくなった。

ここまでくるまでに、
どれくらいの年月が必要だったのだろうか。
「規律正しい」ということが、悪いことだとは言わない。
打てば響くような返事には、相手を酔わせる快感がある。
しかし、そういった「鉄の規律」のようなものが、
鉄骨のように中心に通ったチームが、
ほんとうの強さを持っているのだろうか?
それは、ずっと疑問ではあったのだ。

だらしのない服装、だらだらした走り方、
下品な言葉づかい、自分勝手な行動、
そんなふうなものをよしとしたいわけではない。

「鉄の規律」と「だらだらした」は、
どちらもかなわんなぁ、と思うのだけれど、
あえてどちらかを選ばざるを得ないのだとしたら、
「鉄の規律」のほうなのだろうなぁ、と、
昔かたぎで無責任な観客のひとりとして、
ぼくはそんなふうに見ていたような気がする。

ぼくは高校野球の指導者でもないので、
どういうチームのつくり方が、
どんなふうな選手の育て方がいいのか、
真剣に考える必要もなかったのだけれど、
実際の指導者たちにとっては、
そうはいかない。

おそらく、試行錯誤の連続だったのではなかろうか。
選手たちの「自由」とか「自立」を、
どうとらえたら、いちばんよい結果がでるのか。
たぶん、そのことをずっっと考え続けていたのだ。
「鉄の規律」という方法論で指導をしていたら、
周囲には誠実に見えるし、
真剣に戦っているように見える。
しかし、問題は、
「どっちのチームが強いのか」だ。
選手たちの力を伸ばして、
強いチームをつくるためには、
おそらくもっと「自由」を
取り入れる必要があったのだと思う。

たぶん、「鉄の規律」が行き渡った、
頑迷な老人にだけは評判のいいというようなチームでは、
試合に勝てないということが、わかってきたのだ。

「戦争というのは、瞬間の判断の連続なのだ」という。
おそらく、野球の試合でも同じことが言えるだろう。
定石通りに何かをしようとしているのでは、
最良の判断をするには、間に合わないのだ。

ニュース映像で、ナチスドイツの行進を見ても、
北朝鮮の人々のマスゲームを見せられても、
妙なプレッシャーを感じさせはするが、
その「鉄の規律」の表現が、
強さとどう関係あるのかについては、
誰にもわからないものなのだった。
(ああいう行進などは、内部に向けて
「裏切るなよ」というメッセージなのかもしれないな)

ぼくの知らないうちに、高校野球の選手たちが
よく笑うようになっていることは、
すばらしいことのような気がする。
あの高校生たちが、やがて社会に参加してきたときに、
よく笑う、自由で強いチームを目指してくれたら?
‥‥こんなにたのしみなことはない。

「死ぬ気でやれ」だとか「負けたらどうなる」とか、
追いつめられることで出せる力も、あるのかもしれないが、
それで獲得できることは、昔の時代の成功のように思える。
新しい時代は、ますます
「瞬間の判断の連続」になっていくのだから、
顔や身体をこわばらせているだけで、
失敗の可能性ばかりが増えていくだろう。

ま、そんなことを考えつつも、
「あんまりだらしないのは、イカン!」と
小言を言うんだけどね。
「だらしない」っていうのも、
「瞬間の判断の連続」に向いてないもんね。

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2005-08-08-MON

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