ITOI
ダーリンコラム

<勝負に全力を尽くす、そのやり方>

これから書こうとしているのは、
とんでもなく子どもっぽいことになりそうだ。
ちょっと考えたら、そんなの無理だよ、と言えそうだ。
ただ、昔々の人間が空を飛ぶ鳥を見て、
あんなふうに飛べたらいいなぁと思ったりしたのも、
「とんでもなく子どもっぽい」ことだったろうから、
たまには、そんなことも言ってみてもいいかと思った。
ま、ともだちとしゃべっているような感じで、
あんまりかまえないで書きはじめてみようと思う。

いつからか、世の中は、ずうっと、
「勝つか負けるか」というテーマで進行しているようだ。
ぼくも、スポーツをはじめとした勝負事というのを、
嫌いなほうじゃない。
それどころか、意識しようがするまいが、
さまざまな場面で、なにかの勝負をし続けていると思う。
自分自身も、勝負事だの勝ち負けだのを
楽しんだり夢中になったりしているのだから、
勝ったり負けたりということには、
けっこうな魅力があるのだということもわかる。

勝つか負けるかで、なにかが大きく変わってしまう。
勝たなかったら、人生にかかわるような勝負もありそうだ。
だから、勝負をする人たちは、みんな勝とうとする。

勝たなくてもいいや、という勝負は、勝負ではない。
それは、理解できる。
勝とうとして全力を尽くすことは、
勝負をしている相手への「礼儀」でもある。
それは、まったくそうだ。
勝つために、全力を尽くすことはまちがってない。
ここまでの考え方には、大人も子どももないと思う。
問題は、その次の段階にあるのだ。

「全力を尽くす」というところから、
わかりにくくなるのだ。
「全力を尽くす」と決意するプレイヤーの前に、
クロスロード(十字路)があらわれる。
ここで、進む道にいくつかの選択がでてくる。

まずは、まっすぐに行くという道がある。
相手が全力を尽くしていることも知っていて、
それを上回る力を発揮して勝とうとする道がこれだ。

2番目には、右折というか、
相手のことなど考えずに、
自分の力が圧倒的であれば勝つはずだという道がある。
これも全力を尽くすということの解釈のひとつだ。

さらに、3番目に、左折にたとえようか、
相手の力を出せないようにすれば、
相対的に、こちらの力が上回るから
結果的に勝つことになるという考え方の道。
全力を尽くすということの、これも解釈のひとつだ。

もうひとつ、最後が、元来た道を戻る、というか、
勝負を降りるという選択肢がある。
ほんとうの全力を尽くすことを、やめて、
趣味や遊びのゲームとして、試合を楽しむ。

問題は、3番目の方向なのだ。
これはこれで、もちろん正当な全力の尽くし方ではある。
野球などの場合で、
相手のクセを見抜いて、その
「相手自身は知らずに、こちらが知っている情報」を元に、
攻撃をしかける、というのは認められる全力の尽くし方だ。
それに似ているけれど、試合中に
「サイン盗み」をしたら、ルール的に認められない
全力の尽くし方ということになる。
しかし、全力を尽くすということの範囲に、
「サインを見破る」がある以上、
その見破る方法に進化があってもいいではないか、
という論理も語られるようになってくる。
いわば、謀略戦というような楽しみ方を好む人もいるし、
そういう裏の裏を推理するようなことも、
スポーツなんかだと楽しみのひとつなのだと思う。

ただ、なんだかおもしろくなくなる。
相手の全力を出させないことが、
こっち側の勝ちになるというような勝負は、
どちらの全力発揮も見られないことになるので、
勝ちや負けは決まるかもしれないけれど、
「人類の文化資産ですね」というような試合にはならない。

スポーツの場合だと、おもしろくなくなる、とか、
美しくないんじゃないの、とか、
お気楽なことを言っていればいいのだけれど、
現実の社会での勝負事では、
そんなことは言わせてもらうこともできないようだ。
それでなくても、なにかと低迷が叫ばれている時代だし、
大量生産大量消費型の商品などは、
その商品のポテンシャルを上回る売れ行きが期待される。
こちらの全力、ということの限界が目に見えているのだ。
だとしたら、競争相手がこけてくれるのが一番いい。
そういう考え方になりやすいだろう。
競争相手が不利になるような状況をつくり出すことが、
全力を尽くすこと、になることが多い。
「勝つために、相手の全力を発揮させないようにする」
この戦法は、いわば、現代の鉄則になっていそうだし、
それがいちばん勝ちやすいのかもしれない。
ここで、「それだからつまらないんだよな」
などと言ったら、大人じゃないということになる。

でも、子どもっぽくてもいいから、
言ってみたいのだ。
相手も全力を発揮して、自分も全力を発揮して、
それで勝負ができて、
その勝負のおもしろさがビジネスになる。
‥‥そんなことを夢みるわけにはいかないのだろうか、と。

ちょうど、いま、選挙戦の真っ最中だ。
それぞれの政党の人たち、候補者たち、
みんなそれぞれに全力を尽くして、
真剣な勝負をしているのだと思う。
しかし、相手の全力を発揮させて、しかも
自分が勝つというような勝負をしている人はいないようだ。
みんながみんな、相手の揚げ足をとりあって、
相手の力を弱めることで、
相対的に、自分が勝つという方法をとっているようだ。
もともと政治とはそういうものなんだ、と
言われるかもしれないけれど、
それでいいのだろうか?
必死で勝とうとすると、必ずそうなってしまうのだろうか?

ある女性の前に、ふたりの男がプロポーズしてきたとする。
どちらの男も、もうひとりの男について、
やれ浮気者だ、ケチだ、スケベだ、無能だ、不細工だ、と、
悪口ばかり言っていたとしたら、
ぼくが、女性の立場だったら、
どっちの男も嫌いになってしまうにちがいない。
全力を尽くして戦うということの意味が、
なんだか、「勝つためにはなりふりかまわない」
という方向に偏りすぎているのではなかろうか。

「どうやっても勝てばいい、勝てば官軍」という発想は、
すでになにかに負けている、という言い方は、
カッコつけすぎなのだろうか。

最初に、子どもっぽいことを語る、と断った。
いま自分の書いていることが、
必死で生きているたくさんの大人に対して、
ある意味ではなめたことを言っているとも思えるからだ。
しかし、言うくらい言っておいてもいいだろう。

先日の格闘技『PRIDE』の試合、
ミルコ・クロコップとヒョードルの試合なんか、
勝者も敗者も、どちらも勝者だったと思えたものだ。
彼らは、これからの試合も、
おおぜいに待たれてすることになるだろう。
美しからぬ試合で勝っても、
ファイトマネーやトロフィーは入っても、
お客は入らないんだよというようなことは、
スポーツの世界では、もう起こっているような気もする。

たまたま、「ほぼ日」は、
競合のない世界にいるように思う。
貶めるべき敵もいないし、
全力を出させないようにするべきライバルもいない。
だから、こんな悠長なことを
言っていられるのかもしれないけれど、
全力を尽くして勝負に負けても、
ちゃんと拍手がもらえるような試合を、
していきたいものだと、本気で思うんですよねー。

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2005-09-05-MON
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