ITOI
ダーリンコラム

<日だまりの生徒たち>

ぼくだけの記憶じゃないと思うのだけれど、
学校時代、休み時間の教室の、
日だまりには、いろんなやつらが集まっていた。

テレビばっかり観ているらしいやつ、
マンガにやたらに詳しいやつ、
骨折したやつ、
職員室の噂をよく知ってるやつ、
女の話ばかりしたがるやつ、
勉強が好きでたまらないらしいやつ、
野球部のやつ、
両親の関係がうまくいってないやつ、
別の街から転校してきたやつ、
妙に銃器の絵がうまいやつ‥‥。

とにかく、いろんなやつがいた。
冬の日だまりには、
池の亀たちが甲羅干しするように、
同級生たちが集まっていた。
いくつかの、男のかたまりと、
女のかたまりができていたけれど、
それぞれのかたまりは、
名付けようのない、ただの集まりだった。

鉄道が好きだから、鉄道仲間で集まるとか、
サッカー好きどうしでかたまるとか、
趣味や興味ごとに集結しているのではなかったから、
あんまり話の深度は増していかなかったかもしれない。
誰かのしかけた話題の途中で茶々を入れるやつもいるし、
飽きてその場からいなくなるやつもいたはずだ。
冬の教室の、日だまりでのむだ話を、
いまの時代でも、
中学生や高校生たちはやっているのだろうか?

ぼくは、自分が「ほぼ日」でやっていることというのは、
冬の日だまりの再現ではないかと思ったのだ。

野球のルールも知らないやつが、
無口な野球部の生徒から、きつい練習の話を聞いて、
「どうして、野球部ではそんなことをするのか?」
と、素朴に疑問を口に出す。
すると、当の野球部員が、
おそらく一度は自分でも考えたことのある
きつい練習の理由を答える。
例えば、投手にとって下半身を鍛えることの意味だとか、
理に適った美しいフォームが打球を遠くに飛ばすこと、
説明できることは、説明してやれる。
そして、もう次の瞬間には、
近日公開される映画のちょっと色っぽい見どころの
話題になっているかもしれない。

そんなふうにして、
自分には関係も興味もないと思われたことが、
どこかでつながりあっていることを知っていく。
鉄道少年は、サッカーマニアの気持ちを知り、
勉強の大嫌いなこどもが、ガリ勉の家庭を思いやり、
弱虫が、ケンカの強いやつの弱みを知ったりする。

関係も興味もないという世界のことを、
誰が聞きたがるか、というのは愚問である。
新しい景色や習俗が好奇心をくすぐってくれるから、
人々は旅に出るのだ。
同時に、なにもわからない人間に、
自分の専門的な知識を披露するものか、
という想像も、考えが足りなすぎる。
人は理解されることが大好きなのだ。
じょうずに気持ちよく聞いてくれさえすれば、
松井秀喜はホームランの打ち方を、
教えてくれるはずだ。

日だまりのコミュニケーションにとって、
大事なことは、ただひとつなのだ。
それは、「ともだちであること」だけなのだ。
教室の日だまりにいたのは、同級生たちだった。
同級生になったということは、
ただの偶然の結果なのだけれど、
そこには偶然がつくった「ともだち」がいたわけだ。
趣味がちがったり、興味が別だということ、
家庭環境が異なっていること‥‥ぜんぶ、オッケーだ。
ちがっているのは前提なのだ。
親族でも同好会でもなく、
偶然同じクラスになったというだけの人たちだ、
ちがっていて当たり前なのだ。
しかし、同じ教室に過ごして、
同じ冬の日だまりであたたまっているのだから、
そこでは、ともだちの関係があるのだ。

ともだちどうしだから、
「つまんねぇことを訊くなよ」くらいは言えるし、
「わからないだろうけど、こういうことだ」とも言える。
ちゃんと聞いてくれるのなら、
仕入れたばかりの大事な知恵でも、教えてもいい。
そんな関係を、ぼくは経験してきたように思う。
このかたちが、「ほぼ日」になったり、
ぼくの普段やっている対談や、
インタビューになっているように思うのだ。

すっかり秋めいてきて、
今日なんか、羽毛のふとんを出してしまった。
さぁ、寒くなるぞ。
あちこちの学校のたくさんの教室で、
生徒たちが日だまりに集まって、
ともだちどうし、とりとめのない話をしてるといいね。

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2005-09-26-MON
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