ITOI
ダーリンコラム

<悪口の取り扱いについて>

そういえば、と、誰だって思い当たると思うのだ。
親しい人しか近くにいないような場面で、
テレビの画面に映っているタレントについて、
「わたし、この人、ちっともいいと思わない」とか、
言ったことがあるだろう。

ない、という人ももちろんいると思うし、
ほとんどない、という人はもっといると思う。
しかし、見ず知らずの人間のことを、
嫌いだの、つまらないだの、ブスだの、嘘つきだの、
ゴマすりだの、才能がないだの、最悪だの、終わりだの、
とても多くの人が言っているのが実情だと思う。
本人に聞えるはずがない、と思っているから、
憂さばらしのように、
名前を知っている他人の悪口を言う。

正直に言えば、それはぼくだってやってきたことだし、
いまだって、とても減ったとはいえ、やっている。
毎年、年頭に「人の悪口を言わない」と誓うのだが、
いつの間にか自分でその誓いを破ってしまうのだ。

天気の悪口を言っても、神様を罵っても、
憂さばらしになるのかもしれないけれど、
やっぱり、人間は、人間のことを悪く言うのが
好きなのかもしれない。
ただ、それは、
ほんとうはステキなことでもなければ、
勧められることでもない。
もっとシンプルに言うと、
「自分の子どもが生まれたら、
 ぜひ人の悪口を言うように勧めます」
という人はいない。
人間がいるかぎり
無くせないようなことかもしれないが、
それは恥ずかしいこととして、内緒で存在するものだ。
どんな人でも運個はするが、人が見ているところで
見せつけながらすることはないだろう。
それと、同じようなものだ。

悪口が止められないのはわかるけれど、
それは親しい人だけしかいないような、
ある種の閉鎖された空間で、「共犯意識」と共に、
外に聞こえないように語られるゲームなのだと思う。

しかし、この人の悪口を言うのは恥ずかしいことだ、
という原則が、かなり壊れてきているような気がする。
人のことを悪く言うのが
「本音を語る」とか「正直だ」ということで、
ある種の評価を受けるようにもなっていると思えるのだ。
なかには、「毒舌」だとか「辛口」という名目で、
芸風として悪口を商品化する人だっている。

そこまでは、みんな気づいていたと思うのだけれど、
インターネット以後は、またおもむきが変わってきた。
ごく親しい人に向かって言っているつもりのことが、
まったく見ず知らずの人にも読まれる、
という構造が、ネットの社会にはあるからだ。

ぼく自身にしても、
インターネットを知ったばかりの頃は、
糸井重里という人間のことを、
こんなに嫌ったり軽蔑したりしている人がいるのかと、
寒風吹きすさぶ荒野にひとり歩いているような
悲しみに襲われたものだった。
何をしようが、言おうが、なんにもなりゃしない、
というような無力感がいちばん強かった。
書いている人は、
ほんとうに軽い気持ちで言っているのだ。
親しいともだちと、
軽いことばのキャッチボールをしてる。
それだけのことなのだけれど、
書かれている本人が、簡単に読むことができるのだ。
どこかの県の、どこかの市のどこかの町で、
「あいつ、最悪だよね」と言っている人がいても、
それが聞えないかぎりは、何の問題もない。
しかし、あらゆる小声が聞えるのが、
インターネットというしくみなのだ。
さらには、本人だけでなく、別の他人もそれを読める。

昔だったら、考えられないようなことだけれど、
たあいもない憂さばらしの悪口が、
ウイルスのように一気に広まって、
図らずも「私刑」を実現してしまうということが、
いくらでも起こりうるということだ。

風邪ぎみの日に考えることだから、
どうしても明るくなりにくいとは知っているけれど、
インターネット時代の価値観というのは、
おおもとのところに、
しっかりと「憲法」のようなものを持っていないと、
なかなか危なっかしいもんだなぁ、と考えていた。

その「憲法」的な意味での、おおもとというのは、
ぼくの考えでは、
・「悪口」を言うのはやめられない。
・「悪口」を言うのは恥ずかしいこと。
・いまの時代の「悪口」は、本人に届くものだ。
というくらいのシンプルなものだ。
この3項目を守るだけで、
多くの被害は防げるように思う。

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2005-12-05-MON

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