<なめなおし。>
「世の中、甘いかしょっぱいか。
なめてみなくちゃ、わからない」
‥‥と、30年も前のぼくは言った。
まぁ、公言したおぼえもないのだけれど、
そんなことを思っていたというだけで、ナマイキだ。
そんなことを思っていたというだけで、
すでに世の中をなめていると思う。
若いときというのは、なにかと「なめたい」ものだ。
おそらく、自分の実際持っている力と、
世の中の大きさや複雑さなどを、
正確にとらえることができたら、
何についても自信なんか持てないから、
相手のことを小さく見るようにして、
目をつぶって飛びかかっていくようなことを
しているのだろうと思う。
世の中、しょっぱいに決まっているのだ。
そのしょっぱさなの中に、ちょっとだけ
甘みが発見できたりするから、おもしろいのだ。
しかし、若さは、そんなことは知りたくないのだ。
びびったら負けだと思っているから、
とにかく、なめたがる。
なめてることを、まわりに見せたがる。
オレは怖がっちゃいねぇよ、と、表現する。
スキンヘッドの頭は、けがをしやすい。
固い頭蓋骨に皮膚がかぶさっているだけでは、
どこかにちょっとぶつかっただけでも、
けがしてしまうはずだ。
だから、腕に自信のある人は頭を剃るのかもしれない。
「怖くねーよ」と、ちょっとハンデを買って出て、
世の中をなめている表現をするのだ。
女性の細いかかとのハイヒールなども、
「心配させちゃうかもしれないけど、わたしは平気」
という、なめたがり表現なのだと思う。
ピンヒールを履いている女は、転ばないのだ。
おなかを露出している女性は、
腹がどんなに冷えてもびんびんに元気なのだ。
寒くなんかないのだ。
スキンヘッドの人も、ピンヒールの人も、
世間やら、街の強そうなヤツやら、
転ぶと痛い人体やら、一般的な健康やらと
タイマン張って、勝負しているというわけだ。
だんだん、経験の質と量が増えていくと、
「なめる」ことが少なくなってくる。
どういうところに、どんなワナがあるとか、
勝負は下駄を履くまでわからないとか、
いろんなことをおぼえてしまうのだ。
そうなると、へたになめてリスクを負うよりも、
「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」
みたいな考え方になっていく。
それは、たしかにそうなのかもしれない。
しかし、なめたままで偶然にうまくいって、
そのまま突っ走っちゃうなんていうことも、
実はおおいにあるのもほんとうなのだ。
人間の一生というのは、
それなりにけっこう長いものだから、
若いうちは「なめたがる」ようなプログラムで、
年齢を重ねていくごとに「みくびらない」設定で
生きていくように、と、
両方を経験するようにできているみたいだ。
うまくできてる、ほんとに。
ただ、最近、ぼくが思うのは、
さらにその後、老人になってから
「やっぱり世間なんてものは、たいしたもんじゃなかった」と、
「なめなおし」する人たちがいるんだよなぁ。
この境地に、行ってみたいもんだなぁと、
ハンパな年齢のぼくは、正月に思っていたのでした。
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