<ともだちの、昔のケンカ仲間。>
ケンカが好きだったり、
たくさんケンカをしてきたり、
というふうな若いときを送ってきた友人がいて。
そのともだちが、ずいぶん年月がたってから
当時のケンカ仲間に会ったのだそうだ。
酒をのみながら、思いで話に花が咲く。
自分たちがどれだけろくでもなかったか、
というようなことを、
トランプのカードを一枚ずつ切っていくように
置いていくような時間が過ぎていく。
当然、暴力をともなったケンカの話にもなる。
ぼくの直接の友人でないほうの人が、
うれしそうに機嫌よく語り続けた。
「おもろかったなぁ、あのころは」
グラスの氷を眺めているような顔をして、
彼はそのころの自分たちの根城にしていた街を
見つめていたのだろう。
ぼくの知っている友人も、言う。
「おもろかった。ほんまに」
友人のケンカ仲間は、もっと本気の顔になった。
「なぁ、ほんまになぁ。
相手のやつらと、映画館の裏に行くときなんか、
ああもしてやろう、こうもしてやろうと、
うれしくてわくわくしたもんなぁ」
ぼくの友人のほうは、それを聞いて驚いた。
同じように、悪い仲間として
別のろくでもないやつらとケンカはしていた。
しかし、ぼくの友人は少なくとも
「うれしくてわくわくして」なんかはいなかったという。
自分としては、どうやって負けずに帰れるか、
逃げることを辛抱して相手にダメージを与えられるか、
いやだという気持ちを見透かされてないか、
いろんなネガティブなことで頭がいっぱいだったらしい。
つまり、「怖いけれど堪えてやる」のがケンカだった。
そして、仲間たちも同じような気持ちだと思っていた。
ところが、目の前にいる昔の仲間は、
「ああぁしてやろう、こうもしてやろうと、
うれしくてわくわく」していたというのだ。
これから始まる、なんでもありのどつきあいを、
たのしみにしていた。
そして、そのたのしかった思い出を、
うっとりした顔で語っているのだ。
「おれは、そのとき、
いつまでも、あそこにいなくてよかったと、
思ったよ」
同じ仲間のなかに、
怖いけれどガマンだと思ってやっていた彼と、
ケンカをたのしみにしていたというともだちと、
両方がいたのだ。
「こいつに比べたら、おれは、まったく
ケンカに向いてなかった」と、
20年も経ってから、知ったのだという。
これだけなのだけれど、
ぼくは、よくこの話を思い出す。
なんでも「好きになれ」だとか、
「好きなことならがんばれる」とか、
簡単に大人たちは言うのだけれど、
ほんとに「好き」というのは、
こういうことなのだ。
街で不良どうしがからみあって、
石を手に持って殴りかかったり、
時には刃物を持ち出したり、
歯が吹っ飛ぶくらいに蹴りを入れたり
というようなことはドラマではよくある場面だけれど、
現実にそこにいる若者たちは、
「恐怖に耐える」ことで、
そこに参加しているのだと思う。
しかし、そういう場面に、
「うれしくてわくわく」している人間がいるのだ。
好きというのは、そういう異常なことだ。
たいがいの争いごとやら競争やらに、
勝ち続けているのは、たぶん、だいたい、
そういう「うれしくてわくわく」している人たちだ。
平凡な、ほとんどの普通の人間は、
「好き」なふりなんかして無理をするのは
よしたほうがよさそうだ。
いろんなメディアやらで、
「ケンカ上等」みたいな姿勢を売りにしている人は
たくさんいるのだけれど、
ほぼ全員が無理をしているように見えてしまう。
いまの総理大臣やっている方なんかは、
けっこう「うれしくてわくわく」な人に見えるなぁ。
いや、これは、
ほめているというわけでもないのですが。
わざわざ結論めいたことを書く必要もないけれど、
ケンカをしないと自己表現できない、というのは、
逆に大事な何かをさぼっているという気もするなぁ。 |