<互角かそれ以上の練習相手。>
前に格闘技の選手に、聞いた話なのだけれど、
「とにかく、練習相手がいる」ということが、
強くなるには大事なのだという。
練習相手、それも、自分より弱い相手ではなく、
互角か、それ以上の相手がたくさんいること。
しかも、いろんな種類の強さがあるほうがいいという。
自分ひとりでやっていく練習も、
もちろん大事なのだけれど、
それは、いつでもどこでもできる。
しかし、練習相手は、そう簡単に見つかるものではない。
格闘技の世界では、ブラジルや、ロシア、オランダ、
というように、ある程度、国ごとの「チーム」がある。
そのチームの選手が試合するときには、
別のチームメイトがセコンドについたり、
練習相手になって、応援したりする。
たまに、孤高の天才と呼ばれるような選手もいるが、
その場合は、よその「チーム」の選手たちと
他流試合のようなかたちで
練習相手になってもらう必要がある。
しかし、単なる形容詞としてではなく「孤高」
だった場合には、他流試合は難しいだろう。
おそらく、自分の弟子であるとか、
身近にいる人々を練習相手にするしかない。
昔の武術家の伝説などでは、
孤独の修業に耐えて強くなる話も多いけれど、
ひとりでできる修業には、やっぱり限界がある。
そういうときに、バッティングセンターで
高速のマシンを相手に練習していたという、
イチロー選手のことを思い出さなくもないのだが、
イチローが、いまも機械を
練習相手にしているわけでないことは、
誰でも知っている事実だ。
「初めて見る球を投げる投手」や、
「自分の自信を打ち砕くような強敵」や、
「意外なコツを教えてくれる仲間」や、
そういう大きな意味での「チーム」と共に、
過剰に「孤高」が強調されているイチローだって、
育ってきたのである。
互角か、それ以上の練習相手がいる。
そして、そのひとりひとりが、
自分のためであり、相手のためであるような、
しかもさらに「チーム」のためであると知っていて、
真剣に練習につきあってくれる。
これは理想を描きすぎているのかもしれないが、
日本でスポーツをしている高度な技量の選手たちが、
本場の国のチームに行きたがるのは、おそらく、
周囲のみんなが「すばらしい敵たち」であり、
それが同時に「すごい練習相手たち」だからだ。
たぶん、学生が就職を希望する会社だとか、
受験生がぜひ入学したい学校だとかも、
彼や彼女にとっての「練習相手」たちが、
たくさんいそうに思えるところなのだと思う。
「ほぼ日」では、ずっと「いい会社とは?」と
考えてきているのだけれど、
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互角か、それ以上の練習相手がいる。
そして、そのひとりひとりが、
自分のためであり、相手のためであるような、
しかもさらに「チーム」のためであると知っていて、
真剣に練習につきあってくれる。 |
というような会社だったら、これも、
とても魅力ある「いい会社」なのだと思う。
自分のキャリアをアップさせることが、
雑誌や本で語られているけれど、
ほんとうは、自分のキャリアよりも
自分のいる場所のキャリアがアップするのが、
いちばん愉快なのではないだろうか。
というようなことを、格闘技の試合での、
あの選手この選手の勝ったり負けたりを
見ながら考えていた。
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さて、オマケを思いついた。
いま、受験とか、就職の試験とかって、
個人の能力やらを試して判断しているけれど、
そんな「個人戦」だけではもったいないと思うんだよ。
個人があったら、団体もあるものだ。
大学の受験なんかでも、
団体で試験を受けるわけですよ。
その試験問題も、いままでの個人用のとはちがって、
もっと遠くの着地点まで行かざるを得ないようなもの。
チームで助け合ったり、個人の得意な部分を伸ばしたり、
さらには、もっと外側のネットワークにつなげたり、
立体的に答えに近づいていくわけだ。
個人としてたくさんの問題に答えられたとかは、
どうでもよくて、団体としてどういう結果を出したか。
だから、いわゆる勉強の出来ない子だって、
合格チームのメンバーになっていたら、
胸を張って入学できるということになる。
団体では落ちたけど個人で受かったやつ、とか、
個人では無理だったけど、団体で受かったやつ、とか、
二段構えで試験に臨めるというわけ。
誰と、どんなチームを組みたいか、なんてことが、
受験シーズンの話題になったりしてね。
こういう受験って、あってもいいと思わない?
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