<立ち合いの大事さ。>
さまざまな競技スポーツの選手やファンなら、
おぼえがあると思うのだけれど、
試合がはじまった瞬間に、
「あ、流れが決まった!」ということがある。
どちらかが、相手に呑まれてしまうような何かが、
あっという間に起こるのだ。
へたをすると、この瞬間のムードがそのまま続いて、
試合が決着してしまうこともある。
それくらい、出合いの瞬間というのは大事なものになる。
将棋の羽生善治さんの書いたものなどを読んでいても、
「立ち合いで負けると、
力を発揮できないまま勝負がついてしまう」
というようなことが、書いてある。
もちろん、その出合い頭に
決まってしまったかに見える勝敗の流れを、
劣勢の側は変えていこうとするし、
優勢の側は、かさにかかって痛いところを突いて行く。
だから、出合いの瞬間にすべてが決まる
というわけではないのだけれど、
出合いの瞬間に失ったなにかを取り返すのには、
並々ならぬコストがかかると思ったほうがよさそうだ。
人間のこころのあり方を、
基本的に決定するのは、
乳幼児期までの母親との関係だという説もあって。
ぼくは、これについても、
「そうだろうなぁ」と実感的に感じている。
これも、出合い頭というほどではないけれど、
人生の「立ち合い」が重要だという話だとも言える。
逆に、大器晩成ということも、信じないわけではない。
そう言うと、どっちなんだ、と言われそうだが、
ぼくのなかでは同じなのだ。
つまり、大器晩成といわれるような人は、
「立ち合い」の時期が遅いのだ、と思っている。
周囲が勝負に出はじめたときに、
まだ、ぶらぶら遊んでいるのではないか。
みんなが、あいつは強くないと考えているときには、
まだ、彼は勝負に参加していないのだから、
勝ちも負けも強いも弱いも、知りやぁしない。
で、たっぷり力量がついたころに、
よいしょっと力強い立ち合いをして、
試合のイニシアティブをとるんじゃないかな。
なんて、思っているのだ。
つまり、やっぱり、いついかなるときでも、
立ち合いが大事だということになる。
じゃあ、立ち合いって、何なんだ?
これ、ずっと興味を持っていたことだった。
いままでのところ、考えているのは、
「最初の分岐」ではないかということだ。
よく、さまざまな質問に答えていくと、
「あなたは、どんな恋人がぴったりか」だとか、
「こんなペットと相性がいい」とかがわかる
yes no式のテストがあるけれど、
あれの最初の質問が、立ち合いというものだと思うのだ。
恋人との相性をチェックするにしても、
前提となる「あなたは、相手を愛していますか?」に
yesと答えるか、noと答えるかでは、
その後のたいていの質問にどう答えるかに関係なく、
行き着く答えは、大きく変わってくるはずだ。
答えに行き着く手前のところでは、
いわば目の細かいやすりで研ぐように
最後の仕上げをするわけだけれど、
最初の最初は、大づかみの
鉈(なた)を振るうような一撃がある。
細かいやすりのひとこすりも、
大きな鉈の一振りも、同じ一工程なのだけだ。
ぼくのイメージする「立ち合い」とは、
この最初の鉈の一振りなのだ。
そういう大きな一撃を、ずっと後になってから
振るうわけにはいかない。
だから、重要なのは立ち合いなんだと考えている。
たぶん、仕事でもそういうものなのだと思う。
「それ、いいね!」とか
「これ、やりたい!」が、
最初の分岐なんじゃないかなぁ。
で、そこからスタートして、
どうやったらうまく行くかとか、
どんなふうに肉付けしていくかとか、
おっとっと失敗のないようにとか、
そんなふうに大きい通りから、路地に入っていくように
仕上げていくことになるんじゃないか。
吉本隆明さんの『家族のゆくえ』と、
羽生善治さんの『決断力』とを続けて読んでいて、
思ったことでした。 |