<ぜんそくの有効利用?>
ぼくは、小学生のときとオヤジになってからと、
2回、ぜんそくになっている。
幸い、いまは発作からも無縁なのだけれど、
無意識でしている呼吸を、
意識的にしなくてはならないというのは、
苦しいものだ。
おもしろいもので、ぜんそくのときには、
ぜんそくの知り合いが発見できる。
そういう会話がでてくると、
「あ、オレもなんです」と申告してくる人が増える。
自分と同じ誕生日の有名人を
知っているようなものかな。
それぞれの「ぜんそく人」が、
どれくらい苦労したかとか、
どれほど治らないかだとか、
ぜんそくの歴史だとか、
ほんとうにいろんなことを話す。
読書家のぜんそく先輩が、
「本を読んでいても、作者がぜんそくだと共感する」
と言ってくれた。
吉行淳之介などは、作品のなかで具体的に
自分がぜんそくであることを書いているけれど、
そう思って読むと、たしかに
「空気」に敏感だという気がした。
『失われた時を求めて』のプルーストも、
ぜんそくだと教えてもらった。
「ぜんそく人」が読むと、わかるらしい。
科学的な理由は、よくわからないのだけれど、
基本的に「ぜんそく人」は、空気に敏感だ。
低気圧が近づいてくると発作のでやすい人もいるし、
空気の汚れたところでつらい人もいる。
かび臭い部屋などで、てきめんに苦しくなる人、
湿気をふくんだ山の空気に反応する人、
海風に発作がでる人、などなどいろいろだ。
どちらにしても、呼吸器の病気なのだから、
吸ったり吐いたりする空気に敏感なのは、当然だろう。
これは、生きるうえでは、
かなりのハンデキャップになると思うのだけれど、
欠点というのは、それを補おうとする力を活性させるから、
いいこともあるようだ。
たぶん、呼吸器になんの問題もない人は、
息がしやすいとか詰まるとか、
空気がいいとか悪いとか、
あんまり意識しなくても生きていける。
しかし、呼吸器に弱みのある人間は、
どうしても息と空気について、
敏感にならざるを得ない。
そうすると、
(ここからは、かなり乱暴な意見なのだけれど)
「空気を読む」ということが得意になるのではないか。
そういうことも、言えるような気がするのだ。
もともと、「空気を読む」と言う比喩は、
目に見えないけれど、その場に
暗黙のうちに了解されている「共通感覚」を、
読みとれ、という意味だろう。
だとしたら、ふだん「現物の空気」を
読まざるを得ないように暮らしている
呼吸器の弱い人々は、
さんざん修練を積んでいるとは言えないか?
「場の空気」を読む、
「時代の空気」を読む、
「街の空気」を読む、
「大会の空気」を読む、
「ご当地の空気」を読む、
どれも、見えないけれど変化し続けている
なんらかの「共通感覚」がそこにあるということだ。
ぜんそくの発作がでないかと、
磨いてきた「空気を読む」練習が、
役に立たないはずがない‥‥と言いたいだけかな?
この論理で行くと、
「ぜんそく人」を、センサーがわりにして、
いろんな仕事ができるんじゃないかい、
ということになる。
新しく開発が計画されている土地に立ってもらって、
「どうですか、息苦しい感じはありますか?」とかね、
お伺いを立てるわけだ。
「う〜ん、そうですね、
この高さの建物が、そこにあると、苦しいです」
とか、あくまでも感覚で答えるのよ、ぜんそく人が。
ぼくは、ぜんそく経験者として、
ふだん、こんなふうな仕事の仕方を、
誰に雇われたわけでもなくやっているような気がする。
とにかく、「息苦しい」には敏感だよ〜。 |