<バカ志願>
これからの時代のキイワードは、「多様性」だという。
いやいや、他のキイワードも
さんざん語られているけれど、
ぼくの知ってるなかでは、
この「多様性」ってやつが目立つなと思っている。
生物の歴史なんかを、ぼんやりでも眺めていると、
その時その時の環境に、もっとも適応している種が、
環境の変化によって一気に絶滅してしまうなんてことが、
何度もくりかえされてきたようだ。
「盛者必衰」「おごる平家は久しからず」
みたいなことだけど、
これは倫理的な意味でばかり言えることではない。
強い生物が、弱い生物を駆逐してしまうと、
もう利用する相手がいなくなってしまうわけだから、
自分も滅びることになってしまうしね。
変化を前提にして生き続けていかないと、
知らず知らずのうちに、滅んでしまうことになる。
でも、変化というのは、根本的に怖いものでもある。
だって、いま現在うまくいっているのに、
変化しようだなんて、賭けに勝つ確率を
わざわざ下げにいくようなものだ。
だから、なるべく変化しないようにすることも、
自分を生かしていくひとつの方法でもあるわけだ。
でも、いまのような時代というのは、
何が安定で、何が勝ちなのか、
これからどういうふうに変化していくのか、
きわめてわかりにくいことになっている。
こういうときには、自信を持って一点張りなんてことは
やりにくくなるから、
あらゆる可能性にちょっとずつ賭けることになる。
どれが当たるか、誰にもわからない。
そういう時代なんだよな。
となると、あらゆる可能性というやつの
種類がたくさんあったほうがいいわけだ。
どれが当たるかわからないとか言いつつ、
似たようなものばかりが数ばっかり揃っても、
それはおそらくダメなのだ。
やっぱり似たようなものというのは、
同じような弱みを持っているわけだから、
同じような条件の変化で全滅しちゃうからね。
で、だ。
「多様性」が重要になってくるわけだ。
いろいろある、ということが、
可能性をいろいろ広げるということになる。
いろんな種類の数字に賭けるのだから、
数字はいっぱいあったほうがいい。
当たらないに決まってる数字に張っても、
ムダになるだけじゃないか、
と言うプロもいるだろうよ。
でも、当たらないに決まってるなんて、
言えるはずがないんだ。
だって、ほら、ほとんどの生物が海にいた時代に、
陸上の生物が生き延びて天下をとるだなんて、
ハズレに決まってるクジが当たったようなものだよ。
ヨーロッパの人たちから見たら、
日本がそれなりの発展をしたことだって、
信じられない大穴だったと思うよ。
当たりそうなものは、みんなが想像するし、
色ちがいくらいの多様性じゃ、
多様とは言えないんだよね。
で、そういうときに登場するのが、
「バカ」と「ワル」なわけさ。
バカは、想像するべき範囲を理解してないから、
平気で逸脱して、天然的に多様性に突っ込んじゃう。
「ワル」は、ルールはわかってるけれど、
そいつを自分に都合のいいように利用するから、
これまた逸脱したなにかを生んだりする。
「ちょいワル」じゃ、そうはいかないんだよな。
逸脱しない程度のワル味、というのが
「ちょいワル」だからね。
多様性をキイワードに据えた社会では、
被害さえもコストと考えたうえで、
「バカ」と「ワル」の活性を認めることになるだろう。
そうでなければ、多様性は生れないからね。
ぼくは一時、イギリスのパンクムーブメントのことを
記録したDVDを何本か見たのだけれど、
あのときに、あのみょうちくりんな
バカでワルでチープなパンクが登場しなかったら、
いま存在してない文化って、山ほどあると思うよ。
なにせ、あのパンクムーブメントのなかで、
それまでは反抗のシンボルだったあの偉大なバンドは、
「ビートルズみたいな煮え切らないやつら」と
言われているのだ。
ビートルズで育ったぼくは、
大好きなビートルズについての
この表現を「なんてうまいこと言うんだ」と感心した。
その当時にロンドンで生活していた友だちが言うには、
「ビートルズしかない退屈さのなかに、
ピストルズが出てきたときはうれしかった!」
と言っていた。
反抗的な若者の代表だったビートルズが、
「安定的で大衆的」なものに繰り上がったときに、
退屈という雲がイギリスを覆ってしまったのだろう。
そこに、何がなんでも「バカでワルでチープ」な
パンクのやつらが登場したのだった。
「ビートルズしかない退屈」は、
ビートルズの対抗馬の人々には
打ち破ることはできなかったのだった。
バカだのワルだのは、しかし、
コストの高いクスリだ。
ぼくなりの「冗談の運命」というチャートがある。
・ただしい
・かたい
・まじめ
・ユーモア
・冗談
・悪ふざけ
・いたずら
・犯罪
ものごとは、以上のように並んでいる。
「ただしい」ばかりの社会は、最悪だ。
ただしくないものは、存在が否定されることになる。
いわば全体主義の恐ろしさだ。
「かたい」もつらいけれど、
ただただ「ただしい」よりは、ましだろう。
対抗的な立場で、なんとか生きていられそう。
「まじめ」は、ゆらゆらしてくれるからなんとか大丈夫。
「ユーモア」というあたりが、
いちばんいい揺れ方だと、
ぼくは思っている。
「冗談」というのは、少しだけ危険。
『冗談』というとてもおもしろい小説があるけれど、
これはちょっとした冗談がもとになって、
運命がどんどん厳しいことになっていく物語。
その背景は、「かたい」と「ただしい」のあたりにある
かつての東欧の社会主義国がモデルになっている。
で、「冗談」はちょっとまちがうと「悪ふざけ」になる。
ここらへんにパンクの苗床がある。
そして、「いたずら」になるのだけれど、
このことばには、合法的なものと、
非合法のものと、両方が含まれている。
「いたずらされた」という表現で、
相当にひどいことをされたことを示すこともある。
こうなったら次は、当然「犯罪」である。
上も、下も、どっちもいやだ。
しかし、どの位置にいても、
どっちにも転ぶ可能性がある。
ぼくらは、そういう社会に住んでいるし、
人間は、そんなふうにどっちにも転ぶ可能性がある。
多様性を必要としている時代というのは、
このグラデーションの、
やや下のほうに価値を置くことになる。
パンクのようなものもそうだったけれど、
いまで言えば、
もうすでに犯罪になってしまったけれど、
その前の段階での「ホリエモン」などの存在は、
非合法すれすれの「いたずら」と
認識されていたのではなかったか。
「こういう時代に、元気があってよろしい」と、
かなり多くの人たちが認めていたのは、
多様性を探っていくためには、
ある程度のリスクも覚悟するべきだと考えたのだろう。
また、多様な可能性を押し広げていくのは、
いつでも
「ちょっとバカにしていた下から上ってきたやつ」
なのだということを、人々は直感的に知っていたのだ。
「嫌いだけれど、そのくらいのやつが必要」と、
ずいぶんたくさんの人たちが、考えていたのだ。
それはちがうとか、それはまちがっているとか、
批判的に見ていたにしても、
かなりたくさんの勉強をさせてくれたことだけは
確かだ。
多様性を必要としている時代とは、
多様を思いつけない膠着した時代の別名である。
「バカとワル」に期待する時代とは、
ほんとうは「芸術」が、その役割を果たせてない時代
とも言える。
「バカとワル」に匹敵するだけのパワーを持った
「アート」が、いつ出てきてもいいはずだ。
その第1弾が、現在の作品ではなく、
昔に描かれて、ずっとメキシコで眠っていた
岡本太郎の壁画『明日の神話』なのだと、
ぼくは思っているんですけどね。
それに続け、それをきっかけに遊べ、です。
BE TARO! というのは、そういうつもりのことばです。 |