ITOI
ダーリンコラム

<恐竜博のように見に行こう、『明日の神話』>

いよいよ『明日の神話』の一般公開が近づいている。
ほんとうに、その日がくるんだという実感がない。
「ほんとう」ってやつがくる前には、
いつでも、そんな感じだ。

思えば、岡本敏子さんが、弾むような声で、
「日本に持って帰れるかもしれないのよ!」
と言っていたのは、この絵のことだったんだと、
きっとそのうち、あらためて思うのだろう。

修復の現場で、たしかにぼくは
『明日の神話』を見ているのだけれど、
ほんとうは、まだ見てないのだ、きっと。
「おおぜいの人の目の前に、あの壁画がある」
というところまで含めて見て、
はじめてあの絵を見たと言えるような気がする。

リンカーンの演説に
「人民の人民による人民のための政治」
というフレーズがあるということだけれど、
それを草稿で読んでも、演説とはちがうんだろうと思う。
演説は、声に乗って、
おおぜいの人の耳に届けられるときに、
はじめて演説になる。

岡本敏子が、あれほどの情熱を傾けて、
文字通り命懸けで、あの壁画を日本に運んできて、
修復しておおぜいに見せたいと願った理由が、
ぼくにも、やっとわかったような気がする。

大衆の無数の目玉の前に置かれるために
『明日の神話』という壁画があったのだ。
『太陽の塔』と対をなす作品と言われてきた意味は、
まさしく、在りようまでも対になっていた。
そう思えるようになった。

岡本敏子さんという嵐に巻き込まれて、
この仕事の手伝いをしているうちに、
ほんの少しなのかもしれないが、
ぼく自身が、変わったように思っている。

どういうところが、ということを
うまく説明できるか自信はないのだけれど、
「岡本敏子さんという嵐」という言い方に、
すでにそのカギがある。
嵐ってやつは、すべてを揺さぶり、すべてをなぎ倒す。
嵐にかぎらず、地震でも、津波でも、
自然現象ってやつはみんなそうなんだろうけれど、
誰彼の見境もなしに襲いかかるのだ。

岡本太郎の表現にしても、
岡本敏子のプロデュースにしても、
そういう自然現象のようなところがある。
相手を選ばずというか、見境もなくというか、
小さな考え方のちがいだとか、信条のちがい、
美意識のちがい、趣味のちがい、国籍のちがい、
民族のちがい、男女のちがい、年齢のちがい‥‥
受けとめる側の、あらゆる差異を無視して、
とにかくあらゆるものに訴えかけるのだ。

ぼくの言い方が、上手じゃないので、
うまく伝わってないかもしれないけれど、
『太陽の塔』を想像してくれれば直感的にわかるはずだ。
あの怖くて優しくてユーモラスで無闇な大彫刻は、
誰に何を感じられてもへっちゃらだ。
嫌がられることや、無視されることさえも含めて、
『太陽の塔』は、あらゆる人間と
(いや人間だけでなく、生きものすべて、いやいや、
 生きているものばかりでなく死んでいるものまで)
関係を持っていられる存在として、立っている。

『太陽の塔』は、
「ぼくのことが、わかるかね?」なんて言わないのだ。
「キミとは、やってられんわ」なんてことも、言わない。
ただ、「やぁ」と、そこにあるだけなのだ、
とても無視しにくい姿で、ね。

自分には、なかなかまねのできないことだと、
ぼくはずっと思っていた。
しかし、岡本太郎や岡本敏子の、
そういうあり方についての、憧れはあった。
正直なところ、あちこちで
現代の「価値」になってしまっている
「こだわり」という言葉について、
ぼくはとても否定的な考えを持っている。
いわば、「こだわり」の真逆のところに、
岡本太郎の芸術観があるのだと、ぼくは考えている。
だから、自分でもそうなれるかといえば、
なかなかそうはいかないもので、
「あれは、ちょっとちがうんじゃないか」だとか、
「それとは、いっしょにされたくないな」だとか、
微妙な差異の部分にとらわれていることが多い。

しかし、それでも、
『TARO MONEY』の制作や、販売などをしながら、
『明日の神話』のコンセプトに接しているうちに、
じょじょに、自分が変わってきているようなのだ。

今回の『明日の神話』という絵画に関しては、
テーマに原爆があり、
さまざまなイデオロギーや、
思想が語られそうな様子だ。
右から左から、上から下から斜めから、
いろんな立場からの発言なども、多く聞えてきそうだ。
しかし、誰がなにを感じようと、
どう考えようと、利用しようと、
『明日の神話』は、お構いなしなのだ。

『明日の神話』は、嵐のように
(誤解を怖れずに言えば、原爆のように)
ありとあらゆるものと衝突し、爆発する。
なにもかもを破壊し尽くし、なにもかもを再生させる。
そういう意思が、無数の目玉の前に、
もうすぐ立ち上るのだ。

みんな、誰も彼も、見に行ってほしいものだ。
野次馬として、火事場見物のように行く人もいいだろう。
目の前には炎、炎、炎だ。
夏休みの「恐竜博覧会」を見に行くように行くにも、
ぴったりの怪獣ぶりだ。
気取った空咳などしつつ、教養を高めに行くのもいい。
きっと仕入れた教養で熱がでるだろう。
デートの場所として、好きなコを誘ってみようか、
『明日の神話』をタネにして口説くのもいい。
現場の管理する人たちには怒られそうだけれど、
壁画を見に来た人たちを相手に、
綿菓子だの焼きそばだので商売する人がいてもいい。

みんなみんな、飲み込んでしまうのだ。
そういう絵だし、その飲み込む快感は、
みんなに伝染していくように思う。

岡本太郎という人の表現は、岡本敏子の情熱は、
こんなふうにいま、生きている。
すごいことだよなぁ‥‥。

まだ実感がないとか言っているけれど、
7月の7日には、もう除幕式。
翌日からは、一般公開だ。
『明日の神話』が見られているところが、
見たくてたまらない。

このページへの感想などは、メールの表題に、
「ダーリンコラムを読んで」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2006-07-03-MON

BACK
戻る