ダーリンコラム |
<ほめるとなぜ伸びるのか?> たびたび語っていることなのだけれど、 「ほめる」が、なぜいいのかについて、 また書いておきたいと思った。 「あれしちゃいけない」とか 「これしちゃいけない」というふうに、 いわゆる減点法で指導していくことが、 まったくわるいことだとは思わない。 社会のルールに関わるようなことは、 そうやって憶えることが多い。 だけれど、「それはいいね」「これはよかった」と、 ほめられることで 人間の可能性が増えるということは、ある。 それについて、どうしてなんだろうと思っていた。 うすうす、わかっていたような気もするのだけれど、 犬と遊んでいて、ああそうかと理解できた。 わりと、最近のことである。 犬に、何をしたら怒られるかを、いくら教えても やってほしいことに行き着かない。 何をしたらほめられるか(ごほうびをもらえるか)が わかったら、それができるようになる。 叱って教えるという方法で考えてみよう。 例えば、まっすぐこっちに来させたいとする。 右に行くのでも、左に行くのでもなく、 まっすぐ進ませたいとする。 右に行ったら、叱るとする。 あなたが犬だったとしたら、 右には行かないようにするだろう。 しかし、次にどうしたらいいのかはわからない。 左に行ってみる。 また叱られる。 では、どうしたらいいかと、あらためて右に行く。 これもまた叱られる。 へたをすると、このままその都度叱られて、 いつまでも正解にたどり着かないかもしれない。 つまり叱られるしつけというのは、 「やってはいけないことを、ひとつずつ無数に憶えていく」 という方法なのだ。 ほめる方法では、 まっすぐ進んだときに、ごほうびをやる。 右に行こうが、左に行こうが、何ももらえないけれど、 まっすぐ進めばごほうびがもらえる。 これだけのことだ。 ほめる方法というのは、 「こうすればいい」ということを教えるから、 無数のやってはいけないことを憶える手間がいらない。 犬と人間を同じにするなと言われそうだけれど、 この場合、同じだと思うのだ。 「価値観」を共有することができれば、 いくらでも可能性は広がるのではないだろうか。 「やってほしいこと」「価値あること」が見えていたら、 やる側だって、そっちに進めばいいということがわかる。 わかることは、できやすい。 そういうことなのだと思うのだ。 あ、犬のしつけよりも、 目隠ししてスイカを割る遊びにもそっくりだ。 目隠ししているあなたは、 どっちに進んでいいか、 どこで棒を降り下ろしていいかわからない状態で ゲームをスタートさせる。 何もわからないなりに、 提案的にどちらかに向かって歩き出す。 「そっちじゃない」という声がいくら聞えても、 どっちに歩けばいいのかはわからない。 なにか正しい方向に向いたときに、 「惜しい」とか「いいよ」とか言われたら、 どっちにいけばいいかわかるわけだ。 だから、いずれ、スイカは割れる。 否定や減点でなく、肯定と加点の方法で ものを教えていくというやり方は、 「やることを簡単に、やりやすくする」ということになる。 これは、教える側の価値観を問う方法でもある。 「そっちへ行くのがいいんだ」と言いきれる価値観を 確かに持ってないと、ほめることはできないからね。 そして、「行けば当たり」になるような方向に、 「偶然でも向く」ための労力を惜しまないという、 弟子側の覚悟も必須なんだよなー。 ああ、ほめあって生きていきたい。 これは、ぼくの最大の夢だ。 |
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2006-07-17-MON
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