ダーリンコラム |
<ネアンデルタール人は、いいやつ?> 『芸術人類学研究所・青山分校』の講義を、 いちばん楽しみにしているのは、 自分じゃないか、という気がしているんだよね。 講座の内容は、いずれなんらかのカタチで、 発表していくことになると思うのだけれどさ。 中沢新一という人の口から飛び出すことばには、 書いた文字で表現されるのとはちがった、 「大きくてふつうで、ナイス」な表現が混じっているね。 それが、あの教場にいる人たちには、 なんとも魅力的なんだわ。 前回は、人間だけが獲得してしまった 「自由と悪」というものについて語っていたときに、 ひょいっと、 「大きくてふつうで、ナイス」なことばが出てきた。 旧石器時代のあたりの人間の祖先は、 ネアンデルタール人とも交流があった という話のなかでね、 「ネアンデルタール人っていうのは、 きっといいやつだったと思うんですね」と、出た。 「いいやつ」なのかよ、ネアンデルタール人は、 と、聴衆であるぼくは、少し笑うわけだよね。 そこに、彼は続けるね。 「おそらく、犬とか猫とかがいいやつであるように、 ネアンデルタール人も、いいやつだったでしょう」 「あ、犬とか猫が、いいやつということか」と、 ぼくは考えをめぐらしている。 犬とか猫とかは、たしかにいいやつだ。 少なくとも、悪いことを考えたりはしてない。 ぼくと犬や猫との間で、 利害がぶつかることがあったとしても、 彼らは悪いことをしないよな。いいやつだ。 ネアンデルタール人たちも、そうだったと考えられるのか。 じゃ、悪いやつというのは、人間だけか‥‥と、 思っているうちに、 中沢新一先生は、「自由と悪の発生」について、 ホワイトボードに図を描きはじめるわけよ。 「いいやつ」という日常語ね、 誰もがふつうに使っていて、 しかも大きな価値を含んだことばを、 ひょいっと空気中から取りだしたように目の前に置く。 このせいで、ぼくらは、その後に語られる 「自由と悪」という 人間が手に入れてしまった概念の正体に 「生々しく触れられる」ことになるんだなぁ。 情緒的な「いいやつ」ということばが、 聴いている者と、語る者の間にさ、 とても自然な「共通の理解」 みたいなものを生み出すんだよ。 中沢新一の手で書いた著書のなかには、 「いいやつ」みたいなことばは出てこないけれど、 しゃべるときには、しばしば出現するんだよね。 これが、おもしろいんだよなぁ。 このところ、学生時代に敬遠して、 というよりは逃げ回っていた古典の入門書なんかを、 いまさらおそるおそる読みはじめたりしているのだけれど、 これが、なんだかおもしろいんだなぁ。 昔の日本人の表現というのは、 ことばに、記号のような役割を持たせてないんだよね。 ひとつのことばが、どの意味に対応するか、 なんていうようなところが、厳しくない。 とてもゆるやかで‥‥いいんだよ。 だって、もともと、ことばは 「ロジックを語ることもできる」というだけで、 ロジックを述べるために生れてきたわけじゃないんでね。 そういう当り前のことを、 初歩的な古典の入門書を読んでるだけで思い出すわけさ。 「いとをかし」を、論理的に説明してもらわなくても、 まったく構わないしさ。 「もののあはれ」について、 化学者の手つきで分析なんかされても、 その正体はわからないもんね。 「いいやつ」という中沢新一のしゃべりことばに、 あらためて敏感に反応したのも、 いまの自分の気分にフィットしてたからかもしれないね。 このごろ、ことばの「ふくみ」とか、「多義性」とかが、 わからない人が増えているって聞くけれどさ、 それは確かに、ぼくも感じてたんだよね。 もっと昔の日本語に触れたほうが、 ふくらみとかがわかっていいかもしれないね。 だいたいさー、学校の古典の時間に習ったときには、 つまらないなぁと思っていたけど、 『万葉集』にしたって、なかなか色っぽいもんだよ。 びっくりしちゃったよ、おじさん。 テレビとかもなかったし、 遊びやらお楽しみの相手(道具)は 「人間」それも異性だったということなんだろうなぁ。 きりないから、このへんでやめとこう。 じゃ、またね。 |
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2006-08-21-MON
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