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このごろは、トイレに『万葉集』が置いてあるんでね。
しゃがんだら、読むのよ。
よく短編小説をトイレに置いとくって人がいるけど、
読み終わるまで立ちにくいってのは、いかがなものか、と。
あるいは、読み終わらないのに立ち上がるの、どうか。
なんてことを思うとね、よくないのよ小説はね。
ショートショートだって、それなりの長さだからさ。
それに比べりゃ、『万葉集』は、
いちばん短く読み終えようと思ったら、
31文字でいいんだからねー。
余裕があったら、現代語訳やら解説やらを読んでもいいし、
次の一首に進んでもいいわけだよな。
昨日はね、
我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて
暁露に 我が立ち濡れし
(大伯皇女)
わがせこを やまとへやると さよふけて
あかつきつゆに わがたちぬれし
というのを、たまたま読んだんだけどね。
ほら、おれって、教養方面では日暮れて道遠いじゃない。
わかりゃしないよ、意味の深いところなんかね。
背子ってのは弟らしいけど、
まずは「なんか大事な人」のことだろうなくらいに
ざっと思って読んでるわけだ。
弟を大和に見送ったんだよね。
夜が更けていくんだな、時間が経っていくわけだよね。
そしたら、もう、朝の露に
すっかり濡れてしまった‥‥ということだろう。
ツッコミ体質の人が読んだら、
「一晩中立って見送ってるなんて、ないだろう!」
と言うんだろうけどな。
そう考えるのはなぁ‥‥
いまの人すぎるんだよ、おれに言わせると。
一晩中、立ちつくしていつまでも見送るような別れを、
そのツッコミ体質のぼくちゃんは、
経験してないだけかもしれないだろう?
ま、どんなふうに解釈してもいいんだけどさ、
おれは、ずっと立っていたと思うんだ。
そう思わせる歌なんだよな、これが。
それはさ、理由は下の句のリアリティにあるんだよな。
「暁露に 我が立ち濡れし」なんだ。
からだが、朝の露に濡れたという
詠み人の肌の感触伝わってくるからなんだ。
草に朝の露がついているって、
知らないやつと、知っているやつがいるんだよ。
で、知ってるやつのなかにも、
頭で知ってるやつと、からだで知ってるやつがいる。
昔の、万葉集のころの人は、
もちろんみんな朝露のことは、よーく知ってるよな。
歌に詠むくらい、知ってる。
いっぽう、だよ。
いま生きてる人間だって、
つまりは、おれだって
朝露を知ってるよ。
草の生い茂ったところを歩いてたら、
裸足の部分が、濡れちゃうよな。
そうとうに天気のいい日だって、
朝の草ってのは、冷たい水をかけたみたいに
びしょびしょに濡れてるもんだよ。
その感触が、思い出されるんだよな、この歌で。
濡れるっていう「感じ」の部分だよ、
この歌のずーんとくるところはね。
実際のところ、解説を後で読んだらさ、
この弟と姉の別れっていうのが、
政争にからんでの、
命にかかわるようなことらしいんだよ。
それほどの背景についちゃ、
この歌そのものには書いてないわけだからね。
わかりゃしないわけだよ、歌だけじゃ。
だけどさ、夜から朝になるまで、
別れた人を案じて立ちつくしてるってのは、
わかるじゃないか。
そのわかるってのは、朝露の感触が
詠んだ人と、読んだ人の間を
つないでくれるからだよ。
万葉の時代とさ、いまとさ、
草の上を歩くときの感じは、
なんにも変わっちゃいないってことでさ。
「草」だとか「朝露」だとか、
「別れ」とか、いろんなことの実感が、
人間と人間をつなげちゃうわけなんだよな。
すごいことだと思うよ。
文字で書いてある情報として、
「草」だとか「朝露」だとか、
いくら知っていても、わからない感じこそが、
人間のこころの部分に、たまっているわけよ。
「草」だの「朝露」だのもね、
まるごと感じたことがあるかないか、
大事なことなんだぜ。
テレビドラマとかじゃ、
若い人とかね、カップルなんかが
草の上に腰を下ろして語り合う
なんて場面があるじゃないの。
あんなの、ドラマだからいいけどさ、
草についた露で、けつがびしょびしょになるよ。
白っぽい服着てたら、緑に染まっちゃうかもしれないしさ。
ピクニック用のシートがあるのだって、
草の上だって、直に座らないほうがいいからだろ。
その、草の上でけつが濡れますって「感じ」はさ、
辞書にも書いてないし、
インターネットでも調べられないんだよ。
ついつい草の上に腰を下ろして、
「うわぁ、濡れちゃったよ」という経験が、
「感じ」のボキャブラリーになって、
人柄とかをつくっていくわけだよな。
『万葉集』の時代の人が、
「我が 立ち濡れし」って歌ったことが、
そうかぁって、実感もって伝わったのは、
かつておれが、朝露の上に座って、
けつを濡らしてさ、
しまった!という経験があったおかげだよ。
おもらししたみたいに、冷たくなるわけよ。
あ、こう言うとおもらししたことがあるみたいだな。
‥‥あるよ、おもらし。
それだって、やっぱし、したほうがよかったんだよ。
あんたも、こんなの読んでるひまがあったら、
草でけつを濡らせ、ということだよ。
そういうことを、いっぱい知れというわけさ。
かけそばだとか、ラーメンを食うときに、
どんぶり持つだろう?
あれだって、どんぶりの重さが軽かったら、
おいしさも変わってくると思うんだよな。
こうなると、味にまで関係してるわけだ。
「いままでのラーメンのどんぶりは重すぎるから、
もっと軽いのを開発しました」とかさ、
わかったような顔して言っても、
バカにされちゃうんだよ。
どんぶりが軽くなっても、味は変わらないはずなのに、
実際にじぶんがラーメン食うときに、
どんぶりが軽かったら、がっくりくると思うよ。
そういうもんだよ。
アニメーターになったとしてもさ、
ラーメンのどんぶりの重さを、
感じたことが生きている表現ができれば、
そのアニメーションを見ている人に、
「うまそうっ!」って、伝わると思うよ。
こういうことだって、
「草でけつを濡らせ」ということなんだよ。
草むらのバッタの飛び出しに注意ってことだよ。
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