ダーリンコラム |
<ちょっと低いところで落ち合おう> たとえば、日本語をしゃべるぼくと、 アメリカ語をしゃべるジョージが、 おたがいにコミュニケーションしようと思ったら、 英語で話すにしても、日本語で話すにしても、 ちょっと程度の低いところで、 コミュニケーションが完成するのだと思う。 ぼくは、 相手が日本人だったら、 ぼくの考えの奥行きやら、道筋やらも理解してもらえて、 もっと深いところで理解し合えたんだろうな、 と思うだろう。 相手のジョージも、 相手がずっと英語をしゃべっているアメリカ人なら、 もっと心から同意できたんだろうな、 と思っているにちがいない。 同じように「さくら」ということばをつかっていても、 日本人の「さくら」にこめた意味と、 アメリカ人の「SAKURA」に対するイメージはちがう。 それでも、「さくらは、いいですねぇ」ということで、 コミュニケーションは成立するものだ。 そして、そのコミュニケーションは成立はしているけれど、 「ちょっと低いところ」でのものだ。 かつて、ぼくはそのことについて、 だからイヤなんだよなぁと、 ひとつも外国語なんかできないくせに、思っていた。 種類のちがう個人なり集団なりが、 出合ってコミュニケーションしようとしたら、 どうしたって、完璧に同じように理解はできない。 それでも混じり合って、共通の生活をしていたら、 たがいに(自分の価値体系からすると) 「ちょっと低いところ」で折り合いをつけることになる。 大人と子どもがコミュニケーションする場合も、 似たようなものだ。 男と女が出合ってからのコミュニケーションにしたって、 たがいに「ちょっと低いところ」でガマンすることになる。 地域によるちがいを抱えている者同士も、そうだ。 山形県の人と、高知県の人が出合うことだって、 「しょうがないな、相手は自分とちがうんだし」と おたがいを許し合いながら、 「ちょっと低いところ」で過ごすことになる。 赤と白の絵の具が、混じり合って、 しかたなくピンクになるようなことを、 イメージしてもらったら、もっと話は早かったかな。 この場合にしても、赤が赤であることを押し通したら、 混ざり合うことはできないし、 白が白であろうと突っ張ったとしても、同様のことになる。 異文化が、共に生きようとしたら、 「ちょっと低いところ」で落ちつくものなのだ。 それがイヤだ、そこがガマンできないと言っていたら、 共には生きることは、限りなく難しくなる。 おおげさになるけれど、 おそらく、人間の歴史も「ちょっと低いところ」を 延々と流れてきた大河のようなものなのだと思う。 「わかってもらおうとすること」と 「わかろうとすること」、 このふたつがなかったら、面倒もないだろうけれど、 明らかに血のめぐりが悪くなって、死に近づいていく。 生きているというのは、絶えざる更新なのだから、 面倒でもイヤでも変化の流れを必要としているのだ。 それを考えたら、「ちょっと低いところ」を バカにしてイヤがっているわけにはいかないだろう。 バカと煙は「高いところ」に上ろうとするというけれど、 そういう冗談はともかく、 なにがなんでも「高いところ」を尊しとする考えは、 けっこう魅力的に映るものだ。 でも、その尊さを守ろうとして、 息を止めてしまうことよりも、 ぼくらは「ちょっと低いところ」で、 異種と、異文化と、異人種と、いっしょに歩いていくことが 大事なのではないだろうか。 おそらく、そのための勇気なんかいらない。 あらゆる時代の「庶民」が、ごくごくふつうに やってきたことなのだから。 たとえば、落語の世界で生きている人々は、 みんなそうやって暮らしている。 「ほぼ 日刊イトイ新聞」だの、 「ま、いっか」だの「言いまつがい」だの、 「ほぼ日」の方向性は、 もともと、そういうところにあったんだけどねー。 |
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2006-12-11-MON
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