ダーリンコラム |
<競争すれば進化するのか?> 「競い合わないところに、進歩はない」であるとか、 「競争原理で、全体の水準をあげていく」だとか、 しょっちゅう耳にしたり、目にしたりする。 最近では、学校の先生に「競争原理」を持たせるとか、 そんな発言があったような気がする。 最近ばかりじゃなくて、 よく言われていたことなんだろうな。 切磋琢磨ということも、言われる。 野球だとかスポーツの世界では、 「レギュラーポジションが、いつ奪われるか」 いつでも真剣に気にしていることが、 能力を磨いていく動機になるのだという。 競争をすれば、足の引っ張り合いや、 スキを狙うだとか、 ライバルのケガをよろこぶというようなことも、 当然のこととして起こってくる。 ジャッジをする監督なり、 コーチのよろこぶような要素を、 効率よく表現するという人も出てくる。 しかし、そういうことができる人たちのことは、 「それだけ真剣で、必死なんだ」 とほめられることになる。 ぼく自身も、 そういう考え方のなかで育ったと思う。 「いやでも、競争の社会なんだ」とか、 「弱肉強食の世界で、 負けるということは食われるということだ」とか、 愛情にあふれる説教をたくさん聞いてきた。 「団塊の世代は、人数が多い分だけ競争が激しかった」 ということでもあるらしく、 ぼくは、そういう競争なれした世代の人間らしい。 だから、「競争は避けられないもの」であるとか、 「競争することが社会と人間を進化させ豊かにする」 というような考え方が、染みついているはずだ。 それは、ぼくの属する世代ばかりでなく、 だいたいの人たちが受けてきた教育でもあるわけで、 「競争による食い殺しあい」 という側面を否定する人でも、 「競い合って磨きあう」 という原理については、 それはその通りだと言うだろう。 「競争が、進化を生み出し、豊かさをつくる」 これは、疑う余地のない原理なのだろうか。 どうも、それが気になってしようがない。 誰も彼も、どこもかしこも、 「競争原理」で進化を目指していたとすると、 いちばんうまくいった場合というのは、 いちばん激しく競争したグループなのだろうか? 劇画っぽくいえば、「虎の穴」のようなところから、 磨き抜かれた技術や、 誰にも負けない強い人物が現れるものなのだろうか? ほんとに、みんながそうやって、うまくいっているのか。 「競争すること、競争させることでうまく行くはずだ」 という幻想だけで、みんながやってきている ‥‥という可能性はないのだろうか? どんな人間でも、順位づけされる立場にあったら、 より上位に行きたいと願うものなのだろうか。 4897位の人は、4886位になったら、 ほんとうにうれしいのだろうか? そして、しっかり競争していればいつかは 1位になれると信じて生きていけるのだろうか? どうもあやしいぞ、と思うんだよなぁ。 これが、「遊び」の世界で考えると、 「競争」ばかりじゃなく、 「ままごと」っていうものがある。 演劇をやっている人たちなんかだと、 もちろん役の取りあいという 「競争」もあるのかもしれないけれど、 キャストもスタッフも、すべてが それぞれの「役割」を演じる「ままごと」だ。 もちろん、こうした場でも、 「腕を磨く」ということはあるけれど、 それは競争原理によるものとは限らない。 「ままごと」をしているうちに、 いい「ままごと」をしたくなるのではないだろうか。 どこもかしこも、誰も彼もが 「競争」の素晴しさを語ってきたけれど、 それに巻き込まれて際限のない競争をやっていけるのか? ほんの少しでも、「それじゃない方法」を 考えてみたいものだなぁ、と、 競い合い大好きなはずの「団塊の世代」のぼくは、 このごろ強く思うんです。 「ままごと」的な会社‥‥って、どうでしょうね。 |
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2007-01-22-MON
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