ダーリンコラム |
<正義のためとかこわいこと> 「健康のためなら死んでもいい」というのは、 健康マニアをからかう名言だけれど、 こういうことは、いろいろあふれてるよね。 (そういえば、2006年8月7日に掲載された 『翻訳前のアメリカ』で、鈴木すずきちさんが、 アメリカのある側面を、 「“楽をするためならどんな苦労も厭わない” 文化」 という言い方で表現していた。 あんまり見事だったんで、メモしておいたんだ) 「正義のため、お命ちょうだいつかまつる!」 他人の「お命ちょうだいつかまつる」のは、 正義の範囲内のことらしいんだよな。 おとろしいこっちゃ。 ほとんどの大量殺人兵器は、 「善」やら「正義」やら「神の意思」やらを 守るために使われているんだろうしね。 そんな計算、しようもないかもしれないけれど、 「自分が悪いことをしていると自覚している人間が、 悪いことのために使う武器や暴力」って、 大海のなかの一滴分もないかもしれないよ。 ほとんどの暴力は、見える暴力も見えない暴力含めて、 「正しいことのために」振るわれているものだ。 公園のホームレスを襲撃した犯人たちだって、 「みんながやつらに迷惑してるし‥‥」と、 自分たちの行動がいくぶんか正しいのだと言い張る。 人間、「いいこと」をしてないと思うと、 いっしょけんめいになれないものなのかもしれない。 そんなことはないのにねぇ。 みうらじゅん先生を見たまえ。 あんなにいっしょけんめいに、 しっかりと「ろくでもないこと」をしているぞ。 落語の世界の隣人たちを、想像してみろよっての。 何かのために片肌脱ぐようなことがあっても、 そのことでほめられたりすると、 恥ずかしそうに「よせやい!」って言うだろう。 「だって、しょうがねぇじゃねぇか」っていう立場で、 やってるだろう。 それが、自然だと思うんだよな。 いまの世の中の息苦しさって、 「きれいにしよう」「ただしくあろう」って、 思いすぎるせいだと思うんだよなぁ、 落語好きなぼくとしては。 人間って、多少の不健康やら不衛生に 耐えられないように、 多少の不公平やら罪やらいい加減さ‥‥のみならず、 多少の「たいしたことなさ」にも 耐えられないものなのかねー? 「美しい国」なんてものが、いまの時代だけじゃなく、 歴史的にも、いつごろ、どこにあったのか、 教えてもらったことはない。 美しいふるさとの景色やら、 美しいこころの人、美しい文化なんてものなら、 あっちにもこっちにも、これまでにもあったし、 いまだってあると思うんだけどね。 「美しい国」は、知らないなぁ。 |
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2007-02-12-MON
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