ダーリンコラム |
<いちごがあれば‥‥。> 長年生きているうちには、 心から思わなくても「そうするといいぞ」というような 「法則」で解決しちゃうこともあるわけで。 ぼくにも、そういう「法則」がいくつかある。 そのなかでも、よく使ってきたのが、 「人が集まる場所には、ゆげをたてろ」だ。 テレビ番組でも、CMでも、ただの集まりでも、 「ゆげ」をたてるといい。 黙っていても「目をやれるものがある」 ということが大事なのだ。 人間と人間が、それぞれのしぐさやことばだけで、 うまくその場をつくっていくというのは難しい。 難しいなぁということを意識したら、 なおさら難しくなっていく。 ところが、その人たちのまん中に「ゆげ」があったら、 それを眺めているだけでも、ほんわかしてくるのだ。 例えば、おでんの屋台を想像してみたらいい。 「ゆげ」には、人たちが 「いいなぁ」とこころを動かす 何かが表現されているのだ。 だから、トーク番組などでは、 よく、ぼくは注文したものだった。 「なんか、ゆげがほしいなぁ」と。 野外だったら、焚き火だとか、ストーブだとか、 炎の見える火があるといい。 燃える火は、見ていると退屈しない。 そこにいるみんなが押し黙っていたとしても、 「火って、いいね」と言っているのと同じだ。 だから、つまりみんなが黙っていても、会話がある。 人々が集まって、なにかというと 簡単で楽しめる「バーベキュー」をするのも、 そういうことなんだと思う。 いや、「ゆげ」や「火」のことを 言うつもりじゃなかった。 新しい「法則」を発見しかけたのだ。 「いちご」があれば、なんだかうれしくなる。 そういう法則だ。 もう古典の仲間入りをしつつある 「いちご大福」を例に出すまでもなく、 なにかに「いちご」を乗せるということは さまざまな成功を呼び起こすものなのだ。 最もオーソドックスな「ショートケーキ」を考えよう。 台になるスポンジと生クリームが、 ショートケーキの「メイン」である。 これに、薄く薄くスライスした「いちご」をはさみ、 てっぺんにありがたそうに1個の「いちご」を乗せる。 「おいしそう!」も「かわいいっ!」も、 「500円か‥‥買うか」も、 みんな「いちご」が創出した反応なのだ。 まるのままの、でっかいケーキにしても、 人々はどれくらいの品質の「いちご」が、 どのくらいの分量乗っかっているかで、 そのケーキの価値を決めようとしている。 (宝石の何カラットというのと同じだ) デパートの地下の生ジュースのスタンドでも、 どんなにヘルシーだのトロピカルだの言っても、 「いちご」のジュースが 4番打者としてヒットしてるから、 いろんな実験やら冒険やらもできるというものだ。 チョコレート菓子など、 さまざまなドライ菓子類にしても、 シリーズの第2作か、第3作あたりでは、 ほとんど必ず「いちご味」が 登場することになっている。 ヨーグルトにしても、アイスクリームにしても、 同じようなことだろう。 「いちご」さえあれば、大丈夫なんじゃないか? 「いちご」は、もう、 「かわいいもの界」やら「おいしいもの界」の 貨幣に近い存在にまでなっていたのではないか。 「おっぱい」が青年たちの普遍的な価値であるように、 「いちご」は、たくさんの「をとめごころ」の 価値そのものにまで出世していたのだ。 それを、さまざまな場所で商いをする人々は、 とっくに知っていたのにちがいない。 「世の中を渡っていくには、いちごを乗せることや」 遅かったかもしれないけれど、 ぼくは、今日、それを知ったのだ。 「ゆげをたてる」だのなんだの言ってるより、 大事なのは「いちご」を乗せることじゃ。 毎日、どこに「いちご」を乗せればいいのか、 考えながら出勤したまえ。 目は、いつも 「いちご」を乗せるものを探すために見開きなさい。 何かおもしろい話をしたかったら、 その話のどこかに無理やりにでも 「いちご」を乗せなさい。 ‥‥とか朝礼で言いたいくらい、 「いちご」はすごいです。 ぼくが、きみが、 なんか問題を抱えていたとしたら、 あるいは、なんだか鳴かず飛ばずだったなら、 はたまた、もひとつ冴えないようなら、 「いちご」が足りないんだと気付くべきだと思う。 いま、冷蔵庫に「なんかないかな」と見に行ったら、 ありましたありました「いちご」がありましたよ。 やっぱり、うれしかった。 「さすが、うちの冷蔵庫。いいんじゃない?」と、 ほめてやりましたとも。 |
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2007-02-26-MON
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