ITOI
ダーリンコラム

<自分の釣りをする>


湖にボートを浮かべて釣りをしているとき、
いつだって、なかなか思うように釣れてはくれない。
よく釣れていても、大きいのが釣れないとか、
思ったように釣れないとか、
たいていはちょっと悩みながら
楽しんでいるものなのだ。

楽しみながら、あるいは悲しみながら、
ちょっとした悩みを抱えて、
ボートを移動させていると、
ひょいと目に入るものがある。
見覚えのある名人や達人のボートだ。
会ったことのある名人もいるし、
名前だけしか知らないが
ずっと注目している達人もいる。

なぜ彼のボートは、あそこに浮かんでいるのか。
そこにいるには、
そこにいるだけの理由があるはずだ。
遠くからでもロッドの動かし方で、
どんなルアーを使って、
どういう狙いの釣りをしているのかがわかる。
いまの時期、この天気で、
あの場所で‥‥そういう狙いか?
などと、下手くそなりの推理を混ぜつつ、
自分の釣りも忘れて、
名人のボートを見ていたりする。

気にしないように、
気にしないようにと意識して、
すっかり自分の釣りを忘れてしまうこともある。
自分の考えているその日の方法と、
離れた場所にいるボート上で、
名人のやっている釣りが、
似ていてもちがっていても、
影響は受けてしまう。
あっちがいまここで最適の釣りをしているとしたら、
ぼくの釣りは、
それに比べて何か弱いところがあるのだ。
そう考えてしまうので、
それまでにもあった迷いはますます強くなる。

そのうち、名人はとーんとでっかい魚を釣り上げる。
やっぱりな、と、
まるで自分も同じことを考えていたかのように、
「うん、その釣り方でよかったんだな」と思う。
名人の釣り上げた魚に胸をときめかせる。
もう、このあたりになると、
自分の釣りなんて
まったくできなくなってしまうのだ。

何がいけなかったのか、と言えば、
名人を湖上に見つけてしまったことだけだ。
見なきゃよかったと言うしかない。
でもね、見ちゃうんだよなぁ。
そして、つくづく「なるほどねぇ」なんて、
「オレも理解くらいはしていたんです」
というような態度で、
とっちらかった心のまま、
離れた場所にボートを移動させるのだ‥‥。

というようなことは、さんざん釣りをしている頃、
しょっちゅう経験していた。

この、釣りのときの「自分を失う感覚」というのは、
経験していて、ほんとうによかったと思う。
ベテランの人たちは、
よく、ぼくに教えてくれたものだ。
「自分の釣りをすればいいんだよ」と。
このセリフは、何度も何度も聞いたおぼえがある。
その助言の意味は、いまなら理解できる。
「自分の釣りをする」ということは、
それが「自分なりのせいいっぱい」の好成績がでるよ
ということを言っているのだ。
まちがっても優勝が狙えるぞ、なんてことじゃあない。

その人のもともとの実力を、
いちばん発揮できた状態が、
「自分の釣りをする」ということで得られるのだ。
それで成績が悪ければ、
そこから次の目標を考えればいい。
そういう意味の教えだったと思えるのだ。
しかし、ぼくは、つまり欲の深い素人である選手は、
そういうふうには聞えない。
「自分の釣りをすれば優勝できる‥‥とは、
 考えにくい。
 つまり、先輩は参加することに
 意義があると言ってるのか。
 だとしたら、優勝するための方法は、
 どこにあるのか?」
というとっちらかったことを考えてしまうのだ。

本人だけが「万馬券」を買おうとしているのだ。
本人だけが、
優勝も運がよければあり得ると思ってるのだ。
だから、自分の釣りもへったくれもない。
勝ちたい勝つための方法をいますぐ見つけたい、
と思って、我を忘れているのである。
自分がそうだったから、よくわかるのだ。

自分の釣りもできてないし、
勝つための方法などわかるはずもなく、
そんな余裕のない選手に
幸運の女神が微笑むこともない。
そして、なにがなんだかわからないままに、
無力な、空っぽな自分だけが残るのである。

この図は、いろんな場面で当てはめられる。
見知らぬ他人も、そんなことをしていそうだし、
ちょっとした場面では、
自分でもいまだにそんな感じだったりしている。
「自分の釣り」ができてないなと思ったときには、
「ああ、またこのパターンか」と気がつくだけで
ずいぶん息が楽になるものだ。
少なくとも、わかってなかった「自分の釣り」を、
どんなものにか育てていくチャンスにはなる。

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2007-03-19-MON

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