ダーリンコラム |
<すべて「また会う人」として> 人と人との関係のなかには、 「また会う人」と「また会わぬ人」がいる。 典型的に、家族というのは「また会う人」だ。 学校のクラスメイトなんかも、「また会う人」だ。 会社の仲間やら、 上司やら後輩やらも、「また会う人」。 「また会う人」との関係というものは、 大好きであろうが、大嫌いであろうが、 無視できる関係であろうが、 また会うことを前提にされている。 ものすごくひどいことをしても、 「また会う人」には、また会うことになるから、 ものすごくひどいことというのは、やりにくい。 ものすごくひどいこと (というのが、どんなことであるかはともかく)が、 起こってしまったときには、 「また会う人」との関係は、 こわれてしまって「また会わぬ人」になるか、 ひどいことのつぐないがなされて、 こわれかけた関係が修復されることになる。 「また会う人」というのは、 友人とはちがうのだけれど、 誰でもが、人として関わっている人だ。 「また会う人」は、 別名「隣人」と呼ばれる。 <己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せよ> という言葉は、重要であるとされているという。 それが簡単なことなら、言葉として残す必要もないし、 むつかしすぎることなら、 言葉にして伝えてもしょうがない。 簡単じゃないかもしれないけれど、 できそうなこととして、 <己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せよ> という教えがあるのだろうと思う。 さてさて、「また会わぬ人」との関係は始末が悪い。 戦争があって、向うの陣営にいる人たちは、 「また会わぬ人」として勘定されている。 偽造の商品などを売りつけている人が 相手にしているのは、 きっと「また会わぬ人」なのだろうと思える。 よく「消費者は王様である」とか 「お客さまは神様です」なんていうけれど、 そこでいわれる「王様」も「神様」も、 尊敬されているようにも思わせられつつ、 「また会わぬ人」としてあつかわれていると思う。 逆に、スターとかアイドルという人も、 ファンやらお客さま方から、 ちやほやされつつも「また会わぬ人」として あつかわれているような例は多いかもしれない。 いまの時代、「また会う人」どころか、 「いちども会わぬ人」のことを、 たくさん知ってしまったりする。 会わぬままに、 ある種の関係も持ってしまうことも多い。 このインターネット上の文字を読んでくれている人と、 書いているぼくとの関係も、 「いちども会わぬ人」 どうしである可能性のほうが高い。 しかし、「いちども会わぬ人」のことを、 「また会わぬ人」の引きだしに入れてしまうのは、 どうもまちがっていると、ぼくは思うのだ。 いちども会わぬまま、 「また会う人」として関係を築いていくということが、 あるのではなかろうか。 それは、必ずしも互いに好きであるということではない。 嫌いかもしれないし、何も思わない関係かもしれない。 それでも、「また会う人=隣人」としての マナーとまで言わなくとも、接し方が、あると思える。 ここで、きれいごとを言っているつもりはない。 友人のように、ということではないし、 嫌い合っていてもいい、 ということまで言っているのだから。 それでも、「また会う人」であるということで、 ひどいことをできる可能性が、 ほとんどなくなると思う。 「また会う人」に、ぼくは、あなたは、 そんなにひどいことは言えないし、できない。 それくらいの間柄でいるだけでも、 互いを、ずいぶん信頼できるのではないだろうか。 |
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2007-06-25-MON
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