ITOI
ダーリンコラム

<主語のこととか、擬態とか>

なにをどう言いたいということもないんだけれど、
なんか考えてることを、話してみたい‥‥ということで、
たまに、この『ダーリンコラム』に現れるおじさんが、
また、来ました。
ちょっと酒でも飲みながら、
とりとめもない話をしているような感じで、
しばらくおつきあいください。
おつきあわなくても、もちろん、けっこうです。

思ったんだよね、「主語」のことだよ。
突然「主語」の話をしたっていいじゃないの。
思ったんだから、「主語」のことをさ。

日本語は「主語」が省略されることが多いとかね、
よく言われるじゃないの。
だから、自我が育ちにくいんだとか、
責任がとりにくいんだとか、
世間だの周囲だのに流されるとかさ、
ま、あんまりいいことだとされてないよね。

「おまえが好きだ」じゃ、「主語」がないよね。
誰が好きなんだ? というわけだよな。
天から降ってきたごとくに、「好きだ」かよ?
と不思議がられちゃうんだよ、
「主語」絶対主義の人からはさ。
「わたしは、あなたが好きだ」ってね、
わたしという「主語」をつけなきゃ、ダメだってな。
そうかもしれないよ、言いたいことはわかるよ。
中心軸というか、主体がはっきりしてないと、
言ってることの構造が見えにくいよ、たしかに。

「わたしは、あなたが好きだ」ということで、
なんかさ、責任を持って口説いてる感じだよな。
その逆に時代劇なんかでさ、
「惚れたようだ‥‥」なんてセリフがあるよな。
なんかの見えない力に働きかけられて、
「いいなぁ、おまえって」
って思わされちゃったんだな。
責任のひとかけらもないかもしれないよね。
「主語」主義者からは、
逃げつつ口説いているようにも
とられちゃうかもしれないですぜ、お侍さん。

でも、あるよな。
「惚れたようだ」っての、ないことはないよ。
無責任だったり、
刹那的だったりするかもしれないけど、
「わたしは、あなたに惚れたよ」というのとは別に、
「惚れちゃったみたい‥‥」
ってのは、あるんじゃないの。
いいとか悪いとか、そういうことじゃなくさ。

自我だとか、主体的な意思だとか、
あらゆる場面に、あまねく存在するって、
思い過ぎなんじゃないかね、いまの人間ってさ。

好きだの、惚れただので言ったほうが、
よくわかるかもしれないと思って言ったんだけどさ、
かえって話を
ややこしくしちゃったかもしれなかったな。

「あ、雨」って‥‥これで、どうだい。
主語ないよ、雨が降ってきたってことだよ。
でも、英語だったら「イッツ レイン」だよな。
“it”っていう「主語」があるんだよ〜。
「主語」なしでは生きていけないのかね英語人たち。
主体があって、そこからの視点があって、
世界が見える。
そういう発想もいいけどさ、
もっとあるよ、あると思うよ。
視点がいっぺんに複数ある状態とか、
想像してほしいもんだよね。

昆虫で、コノハムシとかいるじゃないの。
こう、葉っぱと「見まつがい」されそうな虫さ。
グァバの葉を食っていて、
グァバの葉とそっくりらしいね。
このコノハムシが、
グァバの葉に似ている理由はわかるよ。
鳥やなんかの敵から食われないように、
葉っぱに化けてるんだろうよ。
だけどさ、コノハムシ自身を主語にするとさ、
グァバの葉っぱに似ているかどうか、
どの目で見て、どうやって判断するんだよなぁ?
鳥だの、人間だのっていう、
他者の目を中心にしなきゃ、
「葉っぱに見えるコノハムシ」は完成しないだろ。
コノハムシを葉っぱとして認識するのは、
あくまでも他者のほうなんだよな。
そんでもって、それなのに、
葉っぱに似ているのはコノハムシだ。
こういう関係って、
主語だ主体だっていう見方じゃ、
とらえられないじゃないのよ。

コノハムシみたいな擬態は、
極端に思えるかもしれないけど、
毒草にしたって「相手にとって毒」という成分を、
植物が持っているわけだよね。
これも、コノハムシの例と
構造はおなじだと思うんだよ。
ワニとワニドリみたいな共生のケースも、
相手にとっての都合が問題になるわけだよね。
なんか、主語があって述語があって、
目的語があるという
文章でなんでもつかまえようとするのって、無理だよ。

もっとさ、その場を、
全体にぼんやりながめるような目で、
包むようなとらえ方も、
やれないとだめなんじゃないの。
え、「惚れたようだ‥‥」がそれかっていうの?
そうね、そういうことで失敗もするんだけどねー。
あははは、帰るわ、おれ。


‥‥と、最後の最後にはじめて
「おれ」という「主語」を発して、
去っていったのでありました

このページへの感想などは、メールの表題に、
「ダーリンコラムを読んで」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2007-09-10-MON
BACK
戻る