ITOI
ダーリンコラム

<顔トレを買って、少々、考えた>

実は、ぼくも社内でわいわいやっている
『ただいま顔トレ中!』が、ちょっとうらやましくて、
ぼくも自分の分の『大人のDS顔トレーニング』を
ひっそり買ったのだった。

毎日こつこつやるというわけにはいかないけれど、
原理を理解するくらいのところまでは、やってみた。
ぼくなりに、ものすごくざっくりとまとめると、
「顔も筋肉で表現している」ということなのだった。
ここで重要なのは、「表現している」というところ。

唐突でわるいけれど、吉本隆明さんの
『言語にとって美とはなにか』を思い出したわけです。
言語で「表現」には、自己表出と指示表出があって‥‥
というはじまりの部分だ。
いやいや、そんな深みに入らないようにしよう。

服を着ることにしても、
「自分の気に入った服を着る」という面と、
「人にどう見えるか考えて服を着る」という面と、
両方がありますよね。
そういうのと、同じように、
ことばづかいにしても、しぐさにしても、
そして顔の表情にしても、
「そのまま出ちゃっている表情」と、
「人にそういうふうに見せたい表情」があるわけだ。
そんなのない、と言い張る
「天然」の人もいるかもしれないけれど、
一般的な社会生活をしている人間なら、
バランスこそちがえ、どちらも持っているはずだ。

で、顔の表現の場合、
具体的な表情をつくっているのは、
身体の他の部分と同じく筋肉の動きなのである。
筋肉は、よく使っていれば鍛えられるし、
使わなければ衰える。
そして、たぶん、顔の筋肉も、
「そのまま出ちゃっている表情」と、
「人にそういうふうに見せたい表情」によって、
使われ鍛えられているのだと思うのだ。

この顔の筋肉を動かして、
何かを「しゃべっている」のが、
表情というものなのだと思うと、
人は子どものころから、大人になるにつれて、
顔のことばが失われていくのかもしれない。
いや、まてよ、
社交辞令をおぼえていくように、
決まり切ったことばのような表情は、
多くなっていくこともあるのかもしれないな。

どっちにしても、生き生きした表情というのは、
アスリートのはつらつとした動きのように、
自分にとっては、のびのびした快感があるし、
他人にとっても気持ちのいいものなのだろうと思う。

というようなことを、あらためて意識すると、
自分の顔の筋肉が、どうも
さぼってるなぁという気がするのだ。
さぼっているのがいけない、というわけでもないと思う。
口下手の人がいても、それはそれで問題ないし、
運動の苦手な人も、特別に悩んでいることもないだろう。
しかし、なんか、こう、
さぼってるという感じは、残念なんだよなぁ。
それは、なんの悪いことをしたおぼえもないのに、
下腹についてきた皮下脂肪を認めるときの、
自分にがっかりする感じとかに、よく似ている。

じゃ、『顔トレ』に励むんですか?
そう訊かれてたら、どうしようか。
「励むとどうなるんだろう、と期待しながら、
 しばらく表情ということについて考えている」
というようなことになるのかなぁ。

犬には、人間のような複雑な表情筋はないけれど、
からだ全体で、ほんとうにいろんなことを
伝えようとしている。
そういうのも、いいなぁ。

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2007-10-01-MON
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