「そんなことも知らないのか?」と、
誰でも、誰かに言われたことがあると思う。
そうだ。
そんなことも知らないのだ。
「そんなことも知らないのか」と、
誰かが怒っているときには、
たいていそこに「そんなことも知らない」人間がいる。
たとえば、それがぼくだ。
おそらくは、それがあなただ。
ぼく自身のことで言えば、
ほんとうに恥ずかしいくらい「そんなことも知らない」。
いわゆる教養というものがない。
古文も読めないし、外国語もできない。
音楽の素養もないし、
美術について語ることもできない。
学校での勉強もしっかりしてこなかったから、
基礎的な社会的な知識とか科学的な知識もない。
新聞を読まないわけではないけれど、
時事問題についてもわかっちゃいない。
いまどきの若い人の持ってる知識も、まず、持ってない。
常識についても、ほとんど怪しいものである。
以上は、比喩ではないし、謙遜で言ってるのでもない。
だいたい誰にでも「そんなことも知らないのか」と、
言われてしまう側の人間なのだ。
で、しかもだ。
知らなきゃ知らないでかまわないでしょう、と
開き直って生きていくつもりはないのだ。
だから「そんなことも知らないで悪かったね」と、
相手に中指突き立てて反抗するようなことはない。
そして、また、
知らないままではいけないから、
もっと知ろう、たくさん知ろう、ぜんぶ知ろう、
というような気持ちも、あいにく持ち合わせてない。
無理だということが、よーくわかるからだ。
そりゃもう、荒俣宏さんだって知らないことはある。
ぼくなんかが、どう足掻いたところでどうしょうもない。
では、どうやって
「そんなことも知らないのか」の攻撃から
身を守ってきたのか‥‥。
自分でも不思議だったので、考えてみた。
そして、こういうことかな、と思った。
まず、自分の知らないことを、
そこにいる相手が知っているということは
「ぼくのかわりに、この人が知っていてくれる」
という意味なのではないだろうか。
いっしょに仕事していて、あるいは遊んでいて、
みんなが同じ知識を持っている必要は、
必ずしもないのだしね。
そして、ぼくのほうは「知っている」という以外の、
何か相手のよろこぶようなことを提供しよう、と。
うれしそうに拝聴するとか、
聴いたことを、何か応用してみるとか。
あるいは、お茶をいれるとかね。
なにもできなくても、
気持ちよくうなずくというのもある。
「一所懸命に、たのしみながら話を聴く」というのは、
そう難しいことではない。
しかし、なかなかそうしてくれる人は少ないのだ。
だから、
「一所懸命に、たのしみながら話を聴く」だけで、
話す人はそれなりに気持ちよかったりもするものだ。
たまに、自分が語る側の立場になった場合、
気持ちよく聴いてもらえるというだけで、
実にいい気持ちになっている。
こんなふうにまとめると、
会話のテクニックとか、
無教養な人間の世渡りの技術みたいに
思われるかもしれないけれど、そういうものでもない。
やっぱり、半端なテクニックで
なんとかしようとしても、
相手は腹が立つだけなのだ。
ほんとうに知りたいと思い、
ほんとうにおもしろいと感じ、
さらには、もっとおもしろい話が聴けそうだ、
という期待を持てなければ、
相づちひとつ打つのも難しい。
さて、では、
そんなに知りたいこと、おもしろい話ばかりが、
世の中にあるものなのだろうか?
‥‥ないです。
おもしろい話を聴きたかったら、
おもしろくない話を、できるだけ聴かないようにして、
おもしろい話がありそうな場所、
おもしろい話を持っていそうな人と会うことだ。
そうしたら、ほとんどの時間を、
興味深く、真剣に、誠実に過ごせる。
「一所懸命に、たのしみながら話を聴く」ことも、
なんの苦労もなくできるはずだ。
ぼくは、つまり、おもしろい話が聴けそうな人を、
探して会っているというわけだ‥‥。
マジックのたねあかしみたいだけれど、
実はそういうことだったのよ。
だいたい、「ほぼ日」の、
ぼくの対談に登場してくれる人たちって、
偉そうに知ったかぶりしてしゃべる人、いないでしょう?
「そんなことも知らないのか」なんて言う人に、
ぼくは会わないようにしているんです。
ずるい?