<人間関係は忙しい>
文体というか、話体がごちゃごちゃになっちゃうけど、
『今日のダーリン』の続きの話をしようかと思う。
まずは、11月23日の『今日のダーリン』を引用する。
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ぼくは1948年の生まれなのですが、
この年代の人には、たぶん、
漢語やら漢詩の素養のない人が多いでしょう。
筆を持って、達筆で署名する人は多くないと思います。
おそらく、古文をすらすら読める人も少ないです。
一部には、例外もあるでしょうが、
団塊の世代の教養というものは、
前の時代の知的な人々からは、笑われていたはずです。
ま、前の時代の人たちにしても、
そのさらに前の時代の人たちからは、
「如何なものか?」と思われていたことでしょう。
作家でもある現東京都知事だとか、
ノーベル賞作家の大江健三郎先生とかは、
悪筆で有名ですものね。
悪筆というだけで、立派な教養人としては失格でしょう。
ああ、そういえば、省庁の看板の文字って、
その省や庁ができたときの大臣が書くみたいですが、
すっごく恥ずかしいような字もありますよね。
相撲部屋の看板も、味のあるというか、
上手からぬ墨跡が目立つような気がします。
ぼくらの下の世代の人々の教養を、
ぼくらの世代のうるさがたは、憂えているんでしょうね。
「いまの若いものはマルクスも読まないのか」
なんて言ったりしているんですかね。
「流行歌の歌詞も、めちゃくちゃになっている」とかね。
昔から、現在に近づくにつれて、
果たして、教養だの知識だのというのは、
しだいに薄まって、程度を低くしていってるんでしょうか?
「質量保存の法則」ってものが応用できるならば、
教養や知識の質量は変わらないんじゃないですかねー?
古典的教養の部分が減って、その分だけ、
何かしらが増えていると考えたほうがいいんでしょうね。
その、「増えてる分が何なのか?」ということがわかると、
時代が見えやすくなるんでしょうなぁ。
今日は年相応のつまらないことを考えてみました。 |
ま、遠慮がちに回りくどい言い方をしてるけど、
要するに「脳」の総仕事量は、
どの時代の人間でも、あんまり変わらないんじゃないか。
そういう話なんだけどね。
じゃぁ、と続けて考えざるを得ないわけだ。
そうだよね、「増えてる分が何なのか?」という問題。
いまの人は、どういう「知識」や「教養」が増えてるのか?
それについて、考え続けて、わかりたいんだよね。
そしたら、その時代の人々の関心やら欲望やら、
重大事というようなものや、楽しみなんかが、
見通せると思うじゃない。
そう思って、いろんな角度から考えようと、
はじめてみたんだよね、いちおう。
それこそ、ネットのことを知ってるとか、
昔よりも世界のたくさんの国の情報を持ってるとか、
電気製品の使い方を知ってるとか、
ポップチャートだって知ってるぞだとか、
無数の商品の知識が増えてるんじゃないかとか、
とおりいっぺんのことを想像したんだけど、
そういうものを全部足しても、
たいしたことないような気がしてきたんだよね。
そこに、急に思いつくことがあったんだ。
前に、機能性飲料の開発に関わってたことがあってね。
脳のエネルギー源はブドウ糖(グルコース)だ
ということを勉強していてさ。
そのときに、特にエネルギーを使うのは、
「人間関係なんです」という説明を受けたんだよね。
出世がどうだ、恋愛がどうだ、家族がどうだ、
嫉妬だ勝ち負けだ恨みだ羨望だ依存だ自立だ‥‥いつも、
いちばん難しくて、複雑で、キリがなくて、
考える時間の多い問題ってのは、
人間と人間がどうやって関係していくか、
ということなんだよねー。
現代になって、人の生き方が、
つまり住み方も働き方も、つき合い方も、
みんな複雑になる一方だから、
そこで脳を使わざるを得なくなっているんだよ、きっと。
「空気を読め」だとか「日本は外交がヘタだ」とか、
「国際政治の力学」だとか「異文化摩擦」だとか、
いまさかんに問題にされていることって、
みんな「人間関係」のヴァリエーションだろう?
もっと身近な例だと、
「美容」だって「ファッション」だって、
「遊び」だって「スポーツ」だって「音楽」だって、
どれも「人間関係」のなかに存在するはずだ。
ここんところに、現代人の脳はほとんど使われていくんだ。
気づいていようがいるまいがね。
人類が、どんどん
知性と教養を劣化させていくように思えるのは、
他にやらなきゃならないことが増えているからだ。
そしてそれは、ほとんど
複雑な人間関係についての努力なのだ。
‥‥って仮説が立つような気がしたんだけど、
どうだろうね。 |