ITOI
ダーリンコラム

<「たのしみ」ということば。>

他の人の道具の使い方を見て、
その道具のことが、
いままでよりわかるようになったりする。

例えば、近所のお使いにしか利用してなかった
自転車というもので、
他の人が遠くまで出かけているのを知って、
「ああ、自転車って、そんなに遠くを見ているんだ」
ということに気づく。
大事に大事に包丁を研いでいる人に出合って、
包丁というものが、どういうものなのか、
あらためて知ったりする。
野球の選手が、他の名選手のグラブさばきを見るのも、
同じようなことなのだと思う。

で、ぼくは、
他の人のことばの使い方を知って、
そのことばをもっと好きになることが、よくある。
それは、正しい使い方のことばとはかぎらない。

若い人や、こどもなんかの、
正しくないことばの使い方も、なかなかおもしろいのだ。
「渋谷のあたり」というのを、
「渋谷らへん」と言ってすましているのとか、
「じぶんたち」のことを「うちら」というのとか、
その変化の成り立ちを想像するのもたのしいものだ。

『言いまつがい』なんかだと、
まちがう理由がうすうす感じられたりするのもおもしろい。

人間が、日常で、
うまいこと「ことば」を操って生きていくのは、
もともと、かなり難しいことなんだと思う。
ぎりぎり紙一重のところで、
笑われない程度に「ことば」という道具を使って
生きているのが、現代の人間というやつだ。

だから、「言いまつがい」が起こることも、
とても自然で当たり前のことなのだ。
それも含めて、「ことば」というものだし、
あらゆる訛りやら、クセやら、まちがいが、
ことばの宇宙を広くしてくれるのではなかろうか。

最近では、「たのしみ」ということばを見直している。
もともと、「たのしみ」ということばについては、
あんまり使う機会がなかったような気がする。

「たのしみ」が、ぼくの近くにやってきたのは、
犬が、散歩中に他の犬のマーキングした跡を
くんくん嗅いでいるのを家人が説明した時だった。
「ああやって、匂いを嗅ぐのが、
 人間が手紙を読むみたいな『たのしみ』なんだって」
ということだった。

ぼくも、犬が、他の犬の残した匂いを嗅ぐのは
知っていたけれど、
「犬はそういうことをするものだ」と、
それ以上のことは思っていなかった。
しかし、それを犬にとっての「たのしみ」なのだと
理解しているカミさんが、うらやましかった。

実際に、散歩している犬が、
しげみに鼻をつっこんでクンクンしているときに、
彼女は「たのしみなんだね」と犬に言って、
立ち止まって待っていてやっている。
ぼくは、「たのしみ」というものだと思ってなかったので、
犬がクンクン匂いを嗅いでいるのを、
急かせて歩き出そうとしているだけだった。

犬にも「たのしみ」というものがあって、
それを尊重しているうちの奥さんのほうが、
ぼくよりも「たのしみ」ということばの使い方が豊かだ。
おそらく、彼女は、これまでも、
自分や他人の「たのしみ」というものについて、
犬の「たのしみ」を急かせたりせずにいるように、
大事なものだと思って生きてきたのだろう。

そういえば、ぼく自身の、
それなりのいい加減な「たのしみ」について、
奥さんにじゃまされたことはなかったような気がする。

「たのしみ」というものが、とても大事なものなのだと
頭ではわかっているつもりでいたぼくのほうは、
あんがい「たのしみ」を
些細なものとして扱ってきたのかもしれない‥‥。

「たのしみ」ということばは、
ずっと変わってないはずなのだけれど、
ぼくの辞書の「たのしみ」は、きっともっと育つはずだ。
犬が、クンクンをたのしんで、
それを見ることをたのしんでいるカミさんがいて、
ぼくの「たのしみ」が大きくなったというわけだ。

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2007-12-10-MON
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