ITOI
ダーリンコラム

<集中力と多様性、というようなこと>

「集中しろ」と、よく言われたもんだよ。
いろいろ考えるな、ひとつのことに集中すれば、
なんでもできる‥‥と、よく言われたよ。
それは、ほんとなんだよ。

目的をしぼったものが強いんだ。
「金だ!」と決めたら、
金に向かって走ったやつのほうが、強い。

脇目もふらず、ひとつの目標に向かっていくと、
余計なエネルギーを消費しないから、
効率よく早く目的がかなう。
そうなんだろうとは思うよ。
たぶん、そういうものなんだろう。
‥‥おれは、やったことないからわからないんだ。

いつも、脇目をふらないどころか、
脇目の集合体みたいにして、やってきた。
集中力というものが、ほんとにないのかもしれない。
いろんなことが、いちどに気になって、
どうにも落ちつかないという日々を、送ってきた。
これが、ほんとうに不便だったんだ。

「いろいろ」が好きなんだ。
これまでも「いろいろ」が好きだったし、
「いろいろ」に興味があるんだよ。
でも、世の中は「集中」がよしとされていたわけだ。

「いろいろ」のことなんて、どうだっていいんです、と。
「いろいろ」が得意なんてこと、あるはずがないです、と。
ひとつでも得意なことを見つけて、
それに集中しなさいと言われてきたんだよ。

でもね、「いろいろ」のことが、
大事にされはじめているようにも思うんだ。
それらしいことばで言えば、
「いろいろ」というのは「多様」ってことだ。
多様性を守ろうとか、価値の多様化とか、
けっこう耳にするようになったいるよ。
つまり、こりゃぁ、
「いろいろ」をよいこととしようってことじゃないかい?

学校でいえばさ、なにせ勉強の成績が価値だったろ。
ときどき、スポーツの得意な人の価値が上ったり、
音楽や演劇の得意な人が脚光を浴びたりするけれどね。
名付けようのないなにかいいところのあるやつも、
「いろいろ」のなかに、実はいたわけだよ。
それどころか、ほとんどすべての生徒が、
「なにが得意なのか、よくわからない」けど、
「それなりに、たのしい仲間」というような役割だったよ。
そういうほとんどの「いろいろ」の人たちは、
どういう評価をしていいかわからないし、
あんまり勘定に入れにくいから、
なんとなく語られないできたんだ、「集中」の時代にはさ。

「集中」というのは、
他の人が他のことに「集中」してくれているという、
ある種の依存関係によって成り立つんだよね。
つまりは、「集中」というのは、
「分業」というしくみのひとつの部品なんだ。

それに対して、「いろいろ」というのは、
なんともかんとも、どう扱っていいかわからない。
「部品」なのか「しくみ」なのか、どっちもでないのか。
「いろいろ」はいろいろのまま、
「いたから、いる」「あったので、ある」
という感じで、これまでもあったし、
これからもきっとある。

でさ、「生産」する側の目で見ると、
「集中」というのはやりやすくて、わかりやすくて、
とてもありがたいんだけれど、
「いろいろ(多様)」とか「ばらばら(分散)」ってのは、
困っちゃうってことだけど‥‥。
もうひとひねりしてみるよ。

「消費」する立場からすると、
つまりは「お客さん」「たのしむ人」の目で見ると、
「あれもカワイイ」「これも、ステキ」
「スペックがどうだか知らないけど、かっこいい」
というようなことは、当然だよね。
「いろいろ」のひとつひとつに、
誰かが価値を見いだしたりするわけだ。

「いろいろ」「ばらばら」‥‥つまり、
多様性ということについちゃ、
お客さんの側では、とっくにまるごと理解していて、
「そっちのほうがいい」とされている価値観なんだ。

市場をつくっているのは、生産の側ではなくて、
消費の側であるわけだからさ、
「いろいろ」を、まるごとつかまえてないと、
仕事やっていけなくなっちゃうんだよねー。
わぁ、おもしろい。
「集中」の苦手な、
ほとんどすべての「いろいろ」の人たちには、
これはけっこう生きやすい時代になるんじゃなーい?

‥‥ただ、問題は、こういうことって、
ゆっくり進むものだからね。
「集中して、いろいろを研究する」人たちの時代が、
まずは来るってことになるんだろうなあ。

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2007-12-24-MON
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