<知られずの詠み人たち>
短歌には、「詠み人知らず」というものがある。
短歌は、河原の雑草のように、
いつのまにか生えてくるものではない。
誰かが詠んだからこそ、あるのだけれど、
それが誰なのかわからない歌というものが
「詠み人知らず」として残っているわけだ。
古今集などの、正統的に編まれた歌集にも、
「詠み人知らず」の歌はしっかり記録されている。
思えば、すごいことだ。
短歌そのものは、よいものとしてしっかり評価されている。
しかし、それを詠んだものが不明なのである。
くどいようだけれど、逆の言い方をすれば、
誰が詠んだかわからないのに、残っている歌が、それだ。
詠んだ本人は、そうやって歌集に選ばれたり、
人々が作者を知らぬままに、
その歌のこころを思ったり口に出したりしていることを、
知っていたのか、知らなかったのか。
どちらにしても、なかなか愉快なことだ。
伸びたくて仕方のない青竹のような若い季節には、
歌など消えてしまっても、詠んだおのれが知られたい、
と、そういうような気持ちがあったりもする。
しかし、そういう季節を人並みに過ごして、
もうこれよりの背丈にもならないなとわかると、
歌そのものが伝わったり、
歌ってよろこばれたりすることのほうを、
うれしく思えるようになる。
たぶん、いちばん気持ちいいのは、
「こんな歌があるんだけど、いいでしょう。
誰がつくったのかわからないんですけどね」
などという感想を、
つくった本人として聞くことかもしれない。
この程度の欲は、残っていたほうが楽しそうだ。
誰がつくったからいいもののはずだ、
というような先入観が、
まったくないところに「詠み人知らず」がある。
それは、欠点もあるかもしれないし、
足りないところも見えているかもしれないのだが、
それでも残ってきたのは、
やっぱり無名のおおぜいの人々が
無くしたくないと感じて残してくれたからだ。
「知られなかった詠み人」は、ほんとうに幸福だと思う。
その人の生きた証のような歌が、
みんなの口から、みんなのこころのなかに、
行ったり来たり出たり入ったりし続けているんだもの。
いや、たまたま短歌の話のように語っているけれど、
こういう「知られずの詠み人」というのは、
たくさんいるんですよ。
古代の彫刻だとか、絵画だとかの美術も、
知られずの芸術家たちの作品だ。
明らかに、誰かの手になるものなのだけれど、
その誰かの名前はわからないという作だ。
建築物や、その装飾もそうだし、
民謡の節回しやら歌詞やらにしたって、
誰かの作になるものではある。
複数の人たちでつくったものなのか、
個人でつくったものなのかのちがいもあるけれど、
人間がいつかつくったものが、伝えられ残ってきたものだ。
1皿の料理のなかにも、
何人もの「知られずの詠み人」が隠れているし、
詐欺の手口にしても、人間の殴り方にしても、
異性を口説く文句にしたって性愛の技術にしたって、
たくさんの「知られずの詠み人」によって、
広く豊かに育てられてきたものだ。
こんなふうに考えると、
聖徳太子伝説はあるけれど聖徳太子は存在しなかったとか、
シェークスピアは複数の人物の合作的人格だったとかいう、
少々、人をがっかりさせるような発見についても、
「それはそれで、よいではないか(とても)」と、
思えてくるのである。
イエス・キリストにしても、ブッダにしても、
古代の大きな人物の伝説は、おそらく
無数の「知られずの詠み人」たちの
希望や期待が縦糸になり横糸になり
複雑に美しく編まれていったものなのだろう。
たくさんの「知られずの詠み人」たちは、
王でも大臣でも気高い人でも、力ある人でもないけれど、
ひたすらに、ただただ詠むことによって、
後世の人々までをも、よろこばせている。
なんか、生まれた価値って、そういうところに
あるような気がするんだよなぁ。 |