<凹型>
凹のことを考えるんだ。
凸レンズと、凹レンズってあるよね。
でっぱってるほうが凸で、いわばポジ(陽画)だ。
ひっこんでるほうが凹で、つまりネガ(陰画)。
なにかを考えたり、思ったりするときには、
考える本人っていうかさ、
主人公が自分だもんだから、
どうしても凸型の考え方をしちゃうものなんだよね。
それは、しょうがない。
というか、そういうものなんだと思う。
だけど、凸があるっていうことは、
その凸を存在させている巨大な凹がある‥‥。
仮に、部屋のなかにリンゴがある。
そのリンゴを凸だとすれば、
リンゴのかたち、リンゴの大きさに凹んだ部屋が、
リンゴにぴったりついて存在しているわけだ。
世界のなかに、ぼくがいる。
ということは、世界はぼくのかたちの凹型をしている。
ぼくが動くたびに、凹型の世界も動く。
そんなふうに、ぼくらは生きている。
きみと、世界の関係もそういうふうになっている。
きみは、きみのかたちを除いた凹型の世界に暮らしている。
あるとき、急にきみがいなくなったりすると、
きみのいた凹型の世界は、きみのかたちの穴が開く。
その穴にもし「いのち」というものを注入できたなら、
きっと、もうひとりのきみが生まれるだろう。
凹型の世界のほうは、きみがいなくなったとしても、
きみのいた空間をなかなか埋めようとしない。
きみがまだその空間を占めているかのように、
世界はふるまいつづけることになる。
きみから見た凹型の世界の、
みんながきみのいた空間をそのままにしておいてくれたら、
きみは、いつまでも生きつづけることになってしまう。
ふつうは、きみのいた空間は、
だんだんと他の用途に使われたりしていくし、
そんな穴は埋めないと危ないよ、などということで、
じょじょに世界は、きみがいないかたちになっていく。
でも、凹型の世界のほうが、
いつまでもきみをいさせようとするなら、
きみという凸型の存在は消えてしまっても、
いつまでもきみは残ることになる。
きみは死んでも、みんなのこころにあるきみの思いでは
いつまでものこるかもしれない。
凹型の世界のことを考えると、
永遠ってあるのかもしれないと、思えてくるよね。 |