<「閉じている」と「開いている」>
なにかとね、
「閉鎖系と開放系」という考えが、
頭をよぎるんだよね。
何を考えているときにも、
「閉鎖系と開放系」ということを、
すぐに思っちゃうわけです。
勉強だの研究だのをしてきて考えていることじゃないので、
おそらく、かなりインチキだったりするものだろうけど、
自分なりにさ、「これは閉じている」と思えたときには、
なんかもっと「開く」方向に行かないものかなぁなどと、
考えを止めないようにしている。
「開いている」とか「閉じている」というのは、
直感的にわかることなのだけれど、
「閉じている」状態に慣れてしまうと、
そこでわりあいに満足してしまうことが多い。
つまり、自己完結してしまうというのかな。
よく、情報通みたいな人が、
「これ、知ってます?
もう100万人くらいが、やってるんですよね」
なんていう情報がある。
それはすごいものだと、まずは感心する。
静かに10万部も売れてる本なんですだとか、
会員が1万人もいるんですよとか、
ほとんどの中高生は知ってますよだとか、
おばさんたちの間では神あつかいですよだとか、
秋葉原で知らないものはないですよーとか、
みんなすごいと思うんだよね。
ついでに言うと、そういう情報を
「ぜんぶおさえておかないと‥‥」とかいう
インターネット世界のものしりさんたちも、すごい。
実を言えば、「ほぼ日」にしても、
そういう仲間に勘定されているようにも思う。
知らない人にとっては、
インターネットのサイトとしては知らない人はいない、
などと喧伝されて「知らなかったなぁ」なんて
言われているような気がする。
昔だったら、こういうものは、
局地的な流行現象みたいに言われてて、
「マイナー」とか「サブカルチャー」とか、
言われていたものなのかもしれない。
「マイナー」は「メジャー」に、
「サブカルチャー」は「メインカルチャー」に
対比されるものとしてあった。
誰もが知っているわけじゃないけれど、
なんだかかなりの人間を惹きつけている魅力あるもの。
あるいは、そういうこと、そういう人、そういう場。
これが、やがて大きく育っていって
「誰もが知っている」になることもある。
そうはならないまま、
自分なりのサイズのまま続くこともある。
いつのまにか、消えていることもある。
大きいだの、小さいだのということとは、
もっと別の、開いているか閉じているかのほうが、
ずっと大事なことのように思えるんだよなぁ。
例えば、会員が1万人いるファンクラブの動向でも、
それが、会員以外の人たちの目に入るところで
活動している場合には「開いている」。
逆に、もっと会員が多くて10万人いても、
それが誰にも知られずに活動している場合には、
これは「閉じている」ということになる。
前者は、薄く知ってる人がたくさんいるというわけだ。
後者の場合は、濃いつながりが10万で止まっている。
そういうことになると、
一揆でも起すなら後者のほうが強そうだけれど、
これからの可能性を考えると、
前者のほうに賭けてみたくもなる。
宮崎県の人口は、100万人強くらいのものだけれど、
この県がどういうふうになっているか、とか、
何が起こっているのか、1億の国民が見て知っている。
支持するとかしないとか好きだ嫌いだは別にして、
これは東国原さんという知事の活動が、
とても「開いている」せいだと言えそうだ。
宮崎よりたくさんの人口がある他の県が、
「閉じている」というふうには言えないけれど、
宮崎ほど「開いている」地域がでてくると、
相対的に「閉じている」という印象になる。
この「開いている」か「閉じている」かの問題は、
広告宣伝の活動をどれだけやっているか、
ということではない。
「外」をどれだけ意識しているかの問題だと思うのだ。
「外」が怖い、ということでも
「開いている」ということなのだと思う。
自分たちのいる共同体の、外側のほうが広い。
これは、いやになるほど自明のことだ。
しかし、その広いはずの外側を、
「ないことにして」も、日々は過ごせるのだ。
これが、「閉じている」ということなのだと思う。
「閉じている」から希望がないとか、
「閉じている」から大きくなれないということはない。
実際に、希望を持った「閉じている」組織はあるだろう。
とても大きな「閉じている」団体もある。
また、「開いている」がゆえの危険はありそうだし、
「開いている」がゆえのコストもかかるだろう。
「開いている」ことがきっかけで、
「外」に飲み込まれることだって考えられる。
それでも、ぼくは、自分や、自分の興味の方向が、
「開いている」のほうに進んでいることを、
楽しもうと思っているんです。
どうしてか、説明するのは、簡単そうでむつかしい。
「閉じている」ということも、
ひとつの戦略としてとるべきケースもあるだろうし。
でも、「開いている」のほうに進みたいと思う理由は、
おそらく、この程度のことだな‥‥。
「そうやってきた場合のほうが、よかったことが多い」
「外」の風を入れたり、
「外」に勇気を出して飛びだして行ったり、
「外」からの人に、話を聞いたり、
「外」の人たちに、受けとめてもらったり、
「外」の人たちと組んで楽しかったり。
そんなことが、たくさんあった。
だいたい、いまの仲間だって、
もともとは、「外」からやってきた人たちだしね。
で、そんなことを思っているはずなのに、
ぼくも、ぼくたちも、
ちょっと気をつけていないと「閉じている」状態になる。
「外」からのすきま風は寒く感じるものだし、
寒いなか、厚着して出かけるのもめんどくさい。
「内」にいて、得意なことをもっともっと、
腕によりをかけて続けていれば、
不安なくやっていけそうな気もするものなのよ。
考えなしに一所懸命歩いていると、
そういう「閉じている」状態に、すぐなってしまう。
だから、しょっちゅう意識しているわけだ。
「開放系と閉鎖系」、「開いている」と「閉じている」。
自分たちと、自分たちの興味を持つ対象と、
両方のことで「開いている」か「閉じている」かを、
考えるようにしている。
インターネットのなかの世界って、
コクピットの操縦士のような万能感を味わいやすいので、
主観的には「開いている」ような気持ちの
「閉じている」病にかかりやすいと思うんですよね。
だから、特別に注意深くしてないと、
すーぐ閉じてしまうと思うので、
だらだらと、こんなことを書いたのでした。
以上は、2007年の2月ごろに、
ぼくが「ほぼ日手帳」にメモをしておいたことを
タネにして、一年後のいま書いたものです。
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