<万国の痛がりやさんよ>
たとえば、歯の治療をするとき麻酔をかける。
麻酔をかけたからといって、
治療がうまくいくということはない。
よりよく消毒されるとか、
傷が早く治るなんてことはない。
麻酔をかけると痛みを感じなくなる、だけだ。
「それがしは、なにがなんでも痛みをガマンします」
という患者さんが来たら、
麻酔が要らないということになる。
もともと、麻酔というものがなかった時代には、
当然のことながら、
「痛いかもしれないけれど、治療します」
ということが当たり前だったわけで、
あらためて、胸の高鳴りを感じるものである。
昔の人じゃなくてほんとによかった。
痛いという訴えがなかったなら、
あらゆる手術は、もっとずっと簡単になるかもしれない。
手術ばかりではない。
格闘技をはじめとする、あらゆるスポーツでも、
痛みというものがなかったら、
「まいった」と降参することができにくくなる。
おそらく、攻撃を受け続けて骨が折れるとか、
余計なひねりやねじれが加わって、
身体がたいへんなことになってばかりいるだろう。
痛みに対する恐怖がない分だけ、
大胆な戦術を採用できるだろうし、
肉を切らせて骨を断つというようなやり方が、
やりやすくなってしまう。
なにごとにも負けず嫌いの人なら、
自分の持ち合わせている「痛覚」のことを、
やっかいもののように考えているかもしれない。
痛いからこそ、負けやすくなるのだ
と思っていることだろう。
活劇を売り物にする映画などでは、
血だらけになって、骨折などもしながら、
攻撃をやめない猛烈なヒーローがよく登場する。
ふつうだったら、貧血で倒れちゃうのではないかとか、
おれなんか痛みで気を失っちゃうよ、とか、
観客のほうは「痛みを感じる人間」として、
「さすが、ヒーローはエライもんだ」と見ている。
活劇の主人公が、すぐに「痛い痛い」と訴えて、
「おれは痛いから、敵を追えない」なんて言ったら、
みんながすっごいブーイングをするだろうよ。
「痛い」ということを、重視しすぎると、
戦争なんかもできにくくなるかもしれない。
ふつうは、痛いと、戦意も喪失しがちなものだけれど、
痛みを感じない戦士がいたら、給料高そうだ。
勝ちや負けのある状況では、
痛がりは苦労しそうだ。
しかし、どうして痛覚なんてものがあるのだろうか。
痛くなければ勝ちやすいのだったら、
生物は痛くないほうに進化してきても
おかしくなかったろうに、
実際には、おそらく人間がいちばん痛がりやさんだ。
痛がる分だけ、戦いには不利なはずなのに、
万物の霊長なりとか言っちゃって、
ずいぶんでかい顔をして全生物の頂点に君臨している。
たぶん、いちばん痛がるものであるがゆえに、
「痛いのはイヤン」という理由で、
痛いことをしないで生き残る方法を、磨いてきたのだろう。
ゲンコツでぶつと、手が痛いから、棒切れでぶつとかね。
とても単純に言えば、そんなふうな工夫をしてきたわけだ。
痛いのはイヤだということで、
危ないところに突っ込んでいかないから、
死ぬ機会も少ない。
逃げて逃げて隠れて攻撃するというような戦法で、
相手の大きさや強さを上回ることも可能である。
人間が、痛みを知らない、もっと強い生物だったら、
遠回りせずにあちこちで衝突して、
あっというまに滅んでいたにちがいない。
逆説的ではあるけれど、
痛がりで弱かったがゆえに、
われわれの祖先の人間たちは、
恐竜でも虎でもマンモスでもなく、
この地上の支配者になってしまったということだ。
ま、そんなエライ立場になったということが、
ほんとうの幸せだったかどうかというような
哲学的な問題については、考えないとすればですけどね。
「痛がれる」というセンスこそが、
「弱さ」を生み出し、
「弱さ」のままに生き延びねばならないという
「不利」な状況が、
「知恵」を発達させたということになる。
そう考えてきたら、
痛みを感じるのは「能力」だとも言える。
痛くないふりをしたり、
痛みを感じないようにして冒険するよりも、
まず「痛い」ということを前提にして、
発想をしていくほうが、
よほどよく生きられるということになりそうだ。
でも、それにしては筋肉主義的というか、
男根的というか、蛮勇的というような
「痛くない強さ」への信仰が、
この時代、まだまだ衰えてないようにも思う。
万国の痛がりやさん、発想せよ。
あなたの弱さを、そのまま糧にせよ。
痛くないものの時代は、ほんとは、もう終わっている。 |