ITOI
ダーリンコラム

<夏のみかんはトロフィー。>

落語に『千両みかん』っていう噺があるんだよ。
ま、落語にはよく出てくるんだけど、
大店の過保護な若旦那が、病の床に伏せっちゃう。
『崇徳院』だったら、この原因は恋煩いなんだけれど。
この噺では、「みかんが食べたい」ってのが理由なんだよ。

夏に、みかんなんかあるわけがないんだよ。
でもっていうか、だからこそ食べたいんだろうね。
番頭さんが必死になって探して、
とうとう見つけるわけだ。
果物のことならまかせとけ、という問屋にあったんだよ。

 「いつなんどき、季節はずれのみかんを食べたい
  というお客さまがいらっしゃるかもしれない。
  そのときに、ございませんというのでは、
  暖簾にかかわる」
 というわけで、蔵いっぱいにみかんを保存しておいて、
 そのなかの、ひとつでもまともなものがあったら、
 それを買ってもらおうということで、
 毎年ムダになるのを承知で準備している。
 
というわけだよ。
そこに一個だけ、あったんだね。
噺の流れは、ちょっと端折って‥‥。

千両で、この季節はずれのみかんが手に入れられた。
一個千両のみかんを、とにかく若旦那が食べるんだよ。
当時の千両というのは、いろんな説があるけれど、
雑に「1億円」というくらいに思ってればいいんじゃない。

すっかりよろこんで食べて、
元気になったその若旦那がさ、
三房だけ残したみかんをね、
「ひとつはおとっつぁんに、
 もうひとつはおっかさんに、
 そして、もう一房は、
 番頭さん、おまえさんにあげよう」
と、渡してくれることになるんだ。

そこで番頭さん、ありがたがって泣き出しちゃう。
一房だけでも百両分のみかんということだからね。

で、ね。
この番頭さん、
ついつい浮かんできた邪なこころに負けて、
みかん三房をじぶんのふところに入れ、
「もうしわけございませんっ!」と、
後方に冷や汗と涙を飛ばしながら、
どこか知らない方向に全力で逃げ出して行った。
 

そういう噺だ。

この噺は、いろんな解説があると思うんだよね。
いろいろあるんだろうけれど、
季節はずれの果物を食べるということが、
どういう意味を持っていたかと、考えてみたんだ。

果物ばかりでなく、江戸時代だったら、
野菜であろうが、穀物であろうが、
自然のサイクルに合わせて収穫するのが当然で、
それ以外の方法はなかったわけだよね。
春に食べるものは、春に獲れたものだし、
夏には夏に獲れたものを頂くしかなかったわけだ。

つまり、それは、天然自然と人間との関係が、
そういうものだったということだよね。
で、とにかく自然に人間が勝つなんてことは、
奇跡みたいなことだったんだよね。

しかし、人間のほうも負け続けとはいえ、
自然のほうの「取りこぼし」みたいなことがあれば、
勝ったも同然の「金星」を拾うこともある。
それが、蔵いっぱいに保存しておいて、
ひとつだけ腐らないで残っていた一個のみかんだ。

そして、その「自然からの偶然の勝ち星」を
手に入れるのは、
「息子のためなら千両は安い」と言える
大きな商家の旦那さんなんだ。
つまり、この旦那は、
自然と人間の相撲において、
人間代表を務められる人だった。
たくさんの「千両箱」を持っているという
貨幣のパワーのおかげでね。

落語のなかには、
「初がつおは女房を質に入れても食う」
なんてことばも出てくるけれど、
これも、自然と人間との関係で考えれば、
「おれは、職人としての腕がいいから、
 自然との最先頭にいるだけの器量があるんだぜ」
というパワーの表現だったとも言える。

このへんの力自慢というか、器量の見せ合いというか、
マッチョな感性というのは、
もともと、人間が狩りや漁で暮らしていた太古の記憶から、
ずっとひと続きでつながっているものだと思うんだ。
マンモスを倒す知恵と力のある者が、
群れを率いるとか、おおいに子孫を残す資格があるってね。

釣りをしているときには、現代だって、
でかいのを釣り上げたら、もう、それだけで
すっごい敬意と嫉妬の対象になっちゃいますからね。
「ちっきしょう、やるなぁ!」って。

初がつおを手に入れることも、
その時代なりの「知恵と力」の見せ所とも解釈できるよね。
火事のときに、命知らずの火消しが屋根にのぼるのとかも、
自然との試合の先頭で戦ってるという意味だよな。

しかし、かつて、
どんなにマッチョな人々でも、
どんなに権力を持った方々でも、
どれほど意地っ張り?なやつらでも、
どんだけ無謀な面々でも、
自然と戦って勝ったものはいなかったんだよ。

みかんは、冬にできて冬に食うんだ。
夏にみかんを食べられるとしても、
それは偶然に腐らず残っていたもので、
夏にみかんをつくって大至急運んできたものじゃないんだ。
でも、それが手に入れられることが、
いわば人間の世界での勝者の証だったんだ。
そう、夏のみかんは
自然との対抗戦の「トロフィー」なんだ。

昔は、そういうものがたくさんあったんだよね。
自然が、とうてい勝てっこない最強の相手だったからこそ、
夏のみかんも、初がつおも、大きなまぐろも、
勝者にあたえられるトロフィーの意味を持てたわけだ。

しかし、それは、時代が下がっていくごとに、
価値が低下していくことになる。
冷蔵や冷凍などの貯蔵の技術が発達し、
太陽のエネルギーを直接にあてにしないでも、
石油だとかの化石燃料を利用して温室をつくったりして、
「夏のみかん」だの「冬のすいか」が、
たいしたやつじゃない人々でも、
手に入れられるようになっちまったんだよな。

温室やら冷蔵という方法の進歩というものは、
自然に勝ったとも言えないんだけれど、
自然に対して「だまし討ち」したくらいの意味はある。
どのみち、勝ち星は奪い取れたわけだからね。

もっとすごいことに、
「夏のみかん」だの「冬のすいか」どころじゃない
世界のどこかに行かなきゃ食べられないような果物だって、
飛行機で運んできてもらえたら、
いつでも手に入るようになってしまった。
しかも、強くもない「ぼくちゃんたち」がね。
これじゃぁ、「トロフィー」の意味がないじゃないか‥‥。
「トロフィー」は無数にコピーされ、
そこにくっついていた誇りも自慢も痩せ我慢も、
すべてが薄まって消えてしまったんだ。

自然に、人間が絶対に勝てないという時代には、
勝者のシンボルとしての『千両みかん』のように、
「トロフィー」の価値もあったんだよね。
でも、いまは、そういうものじゃなくなった。
自然との関係では、人間の力を測りにくくなったんだ。

だから、人間の強さを表現したい欲望は、
もっと複雑に、勝者の「トロフィー」を生み出した。
弱い人には手に入れられないような自動車とか、
世界の中心に一本だけあるような高級ワインだとか、
そんなふうな「自然と人間」の試合を象徴するものでなく、
「人間と人間」の対抗戦の結果を強調するものになった。

でもねぇ、そっちのほうも、
陳腐化しはじめているというのが現状だよなぁ。
「ちょいわる」みたいな雑誌の読者が、
「このトロフィーは、おらにも買えるから買うだよ」って
手に入れられちゃうようなものでは、
トロフィーの意味が薄いもんな。

もうね、どんだけおもしろかったかは別にして、
世の中に、みんながうらやましがる「トロフィー」って、
なくなっちゃったと思ったほうがいいよね。
自然が圧倒的に強くて、だませなかった時代には、
そういうものの価値があったんだけどねぇ。

この流れのずっと先の先には、
あらゆる「交換価値」が下落していく
ということがありそうだ。
逆に「使用価値」そのものが厳しく問われていくとかね。
これはさ、貨幣の「欲しがられ度」も減衰していくという
おもしろい意味を持っていると思うんだけどね‥‥。
いま、こんなこと言っても、笑われるだけかもしれないか。

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2008-03-17-MON
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