<よろしいものと、よろしくないもの>
あんまり好きじゃないんだけど、見ちゃう。
なんか嫌いなんだけど、食べたくなる。
無関心なつもりなんだけど、よく知っている。
そういうもんって、よくあるだろう。
油であげたスナック菓子とかね、
化学調味料をうまいこと使ったラーメンとかさ、
お色気だの暴力とかを惹きにしたB級映画だとか、
どこで誰がちゅーをしてたみたいなゴシップとか、
たしか好きじゃないはずなのに、
人生の時間のある程度の分量は、
そういうものに使われているってことがある。
「わたしはおれには、絶対にそういうものはない」
なんて言い張る人もいるかもしれないけれど、
それは、絶対に、ウソをついていると思うよ。
ウソをついてないとすれば、
自分のやっていることや感じていることについて、
自分で把握できてないということだろう。
人によってちがうのは、
分量の配分だけだ、と思うのだ。
よろしいものと、よろしくないものってのを、
どれくらいのバランスで持っているか。
その比がちがうだけで、
おそらくたいがいの人は持っている。
生れてから死ぬまで、
純粋に「よろしいもの」だけを摂取して、
ストイックに「よろしいこと」だけをして
人生をまっとうしましたなんて人がいたとしたら、
それは人間ではなく、
人間のある一部分だけをコピーしてつくった
人造人間かもしれない。
つもりとしては「よろしいもの」とつき合っていきたい。
なのに、目が、耳が、口が、ボディが、
ひょいと「よろしくないもの」のほうに向かっている。
その、よろしくない瞬間を、
自分の目でちゃんと見るというのは、
それほど簡単なことではない。
見逃そう見逃そう、なかったことにしようという
調子のいい意思がこの瞬間に働くからだ。
自分が「よろしくないもの」に、
どういうふうに興味を持って、
どういうふうにつきあっているのかを、
そのまま知るためには、けっこうな知性がいる。
学校の勉強がよくできましただとか、
知識がいっぱいあるというふうな「知性」でなくてね。
もともと、ぼくは、
この「よろしいもの」と「よろしくないもの」について
考えることが好きだった。
こころが、妙に「よろしいもの」のほうに傾くときと、
ふいに「よろしくないもの」に注意を向けるときと、
両方がずっとあったから、
それについて考えるための教材としては
自分を観察しているだけで十分だった。
もうひとつの教材は、テレビとかのマスメディアかなぁ。
「よろしくないもの」に近づく人々を、
ひたすらに責めたてて、
自分たちは「よろしいもの」のかたまりです、
みたいな顔を平気でしている
「よろしくないもの」としての人間を、
わぁ自分もやっていたかもしれないなぁ、と思う。
ダイエットとか、禁煙とかって、
自分がどういうことに弱いかとか、
どういうことについては譲れないのかとか、
どんなふうに自分にウソをつくのかとか、
教材がいっぱいセットになって詰まっているから、
ありゃぁ、どんどんやったほうがいいんじゃないかね。
じゃ、ここでいったん中締めにします‥‥。
自分がどんなふうに、どんな距離感で
「よろしいもの」と「よろしくないもの」に
接する人間なのか知るためには、
『横尾忠則・冒険王』を訪れることを
オススメいたします、まじで。
もともと、ぼくは横尾さん作のポスターが
あんまり気持ち悪いので、
何度も見に行ってしまったというところから、
「なんでこんなに気持ちがわるいんだろう」
と考えはじめて、
横尾さんのファンになっていた人間です。
「よろしいもの」と「よろしくないもの」については、
いくら考えても、いくら感じても、
こういうことだよ、と結論のでない問題です。
自分のなかのヘンタイぶりとか、
自分のなかの頭の固いところとかも、
ちょっとずつ探検して発見するしかないんですよね。 |