ダーリンコラム |
<小学生のときに気がついたこと> 小学生のころに、気づいたことがある。 嫌みに聞こえたらゴメンよだけど、 ぼくは小さいころだけ成績抜群のガキでさぁ。 よくあるケースですよ、凡人に至る神童ってやつ。 そのころ、もう、気がついたことがある。 クラスで一番ということで大人はほめてくれたりしても、 クラスが8組もあったわけだから、 クラスで一番は8人いるわけだ。 で、そのなかでも一番で、仮に学校で一番だとしても、 市内に小学校は、いくつもあるわけだから、 学校で一番なんて、また何人もいる。 さらに、市内で一番だとしても、 県内には市がいっぱいあるわけだから、 市内で一番なんて、これまた何人もいるってわけで、 ま、きりがないんだけど、 日本中が一番だらけじゃないかと、思ったんだよ。 同じ年齢で日本で一番がいたとしても、 そういう子供は、一歳上にも二歳上にもいるし、 年齢の数だけまた一番が増えちゃうんだなぁ、これが。 だから、なんだといえば、つまり、 偽の一番が、みんな 自分こそ一番だと思いこんでいるってことだ、と。 バカらしいなぁと、誰にも言えなかったけれど、 いなかのガキなりに考えていたのだった。 そう思うと、少々勉強ができるということで、 自慢なんかはできやしないということだ。 わかっちゃった、そういうことが。 人は、何かを根拠にして威張ることなんかできない。 勉強ができるやつなんて、掃いて捨てるほどいる。 いや、そんなにニヒルな感じで考えていたわけじゃないよ。 それよりも、ちがうことに憧れていたんだと思う。 放課後の草野球ごっこで、打球をプールまで飛ばすやつ。 修学旅行のバスのなかで、大人の歌をうまく歌うやつ。 ただなんとなく、いい顔して笑ってるやつ。 木を削って本物そっくりの拳銃を作るやつ。 いろんなことをして遊ぼうと思うときに、 「あいつは呼びたい」と思うやつは、いつもいる。 そういうやつの価値には、名前がつかない。 そういうやつのいいところには、順位なんかつけられない。 この、順位や順番のつけられない価値こそが、 ほんとうは、最高の価値なんじゃないかと、 ぼくは、ほんとに、小学生なりに思ったのだった。 ゲームとしての力自慢は、オッケーだし、尊敬できる。 ゲームとしての美女も美男も、もっともっといてほしい。 ゲームとしての巨乳も、いいんじゃないっすか。 ゲームとしてのちんちん自慢も、どうぞご自由に。 ゲームとして頭がいいってことも、たいしたもんだ。 だけど、それは、ゲームとしてってことにしてほしい。 「ほんとの価値でもないんですけどね」ということを、 本人が知っている場合にだけすばらしいのだと思う。 ああ、いまここにあいつがいてくれたらなぁ、と、 誰かにこころから思われているってことが、 なによりの価値なんだと、ぼくは思う。 スチャダラパーに、 『彼方からの手紙』って、名曲があってさ。 これが、いまぼくが言いたいその気分を、 最高によく表している詩でできているんだよ。 1993年の『WILD FANCY ALLIANCE』ってアルバムの 最後の歌だよ。 順番のつくような、どんな価値を持っていても、 その順番は、もっとすごいやつに追い抜かれるし、 その価値は、年齢や動機の喪失やなんかとともに、 だんだん減っていってしまうだろうけれど、 「いまここに、あいつがいたらなぁ」って 思われることの価値は、永遠なんだよ。 小学校のときに気がついたことが、 いまでも、ぼくのいろんな思考や行動を決めている。 順番のつかないような価値ってのは、 たいてい社会的には「くだらないこと」という 分類をされてるもんだから、 ぼくはずっと、よりすばらしい「くだらなさ」を、 追いかけ続けているな気がしている。 なんか、いまの季節、落ち込んでる人が多いみたいだけど、 勝ちも負けも順位もつきにくい「いいところ」を、 持ってるかぎりは、なんとかなるものさ。 |
2001-03-06-MON
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