ITOI
ダーリンコラム

<小生意気から生意気へ>

こどもの頃から、ぼくは「小生意気だ」と思われていた。
確信はないのだけれど、たぶん当たっている。
先生に言われたこともあるし、
上級生にインネンをつけられたりもした。
どういうわけか、怒られる時や、憎まれるときには、
たいてい自分のところに落雷する。
いやいや、被害妄想でなく、回数とか多いんだもん。

たしかになぁ、なんか小生意気なんだろうなぁ。
あと、ついでに言えば、生意気以下なんだろうなぁ。
たまに、自分がテレビに出てるのを見たり、
雑誌なんかの写真を見たりすると、
「たしかに、信用できない感じのやつだ」と、納得する。
この頃、また連載をスタートしてくれた
枡野浩一くんとかも、似たようなタイプかもしれない。
あ、326くんなんかも、そうかも。
おっと、みうらじゅんちゃんもだ、きっと。

いじめられっこだったことはないんだよね。
一部の先生とか、正義の人とか、
「正しい系」っていうのかね、そういう人に、弱い。
そういうわりには、ぼくを信用してくれる人もいるし、
人づきあいとかは、長く続くほうだったりもするし、
自己評価よりは、もうちょっとマシなのかもしれない。

んで、何を書こうと思ったかというと、
もう半世紀も「糸井重里」やってきてさ、
ふと、思ったわけです。

『オレは、小生意気の「小」を取るための一生を
送っているのかもしれない』

ちゃんと生意気でありたい、と思い続けている。
しっかりした自信過剰。押し通す独善。
ほんとうの生意気とは何か、を追求したいものだ。

いわゆる「毒舌」を仕事にしている人たちの姿勢は、
早い話が「自分がそう言われたらイヤだなぁ」ってことを、
言われる前に言い放っているというパターンだ。
そういうのは、生意気でも小生意気でもない。
いじめられっこの独り言が商売になってるだけだ。
弱さが透けて見える。

ぼくの知っているちゃんと生意気な人たちは、
みんな「たのしんで生きている」気がする。
ちゃんと生意気な人は、正直でもある。
退くときは退き、負けるときは負ける。
「勝ち続けないと人々が離れていく」というような、
セコい不安感をもっていないからだろう。
毀誉褒貶を他人事のように聞く。
それよりも、うまいメシを食ったほうがうれしいから。

ぼくも、自分の「小」がどういう理由でくっついているか、
だんだんわかってきたような気もしている。
小生意気から出発して、ふつうを通り越して、
いずれはしっかりと生意気になりたくて、
今日も生意気なことを考えつく練習をしている。

ところで、「ぼくも生意気なんです」なんて、
メールを送ってこないでね。
それは、たいてい、
単なる世間知らずか、
バカか、
むやみに暴力に自信があるか、
親が金持ちか、の、
どれかだったりするから。

だいたい、ぼくの尊敬する生意気な人々は、
自分が生意気だなんて微塵も思っていないし、
そんなことをわざわざ言いもしないんですよね。
ああ、生意気になりたい。

2001-05-07-MON

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