ダーリンコラム |
<つい。> 夏が近づいてくると、毎年のように思い出す小説がある。 アーウイン・ショーというアメリカの作家の 『夏服を着た女たち』という短篇だ。 決して仲の悪いわけではない中年夫婦のダンナのほうが、 つい、夏服を着た若い女のほうに目をやってしまう。 かいつまんで言えば、そういう小説だ。 乱暴すぎるかもしれないけれど、そういうあらすじで、 それがすべてだと、ぼくは思っている。 この、愛情がどうのこうのでなく、 つい、夏服を着た、つまり肌を陽にさらした女たちを 目が追いかけてしまうという経験は、 たいがいの男たちには思い当たることだろう。 ただ、若いうちは、そのことを告白できない。 つい目が追ってしまうことを、恋人なり妻なりに知られたら 愛情の問題として説明しなくてはならなくなって、 大論争になってしまう怖れがあるからだ。 しかし、中年になったら、ちがう。 それは「つい」なのだ、と言えるからである。 つまり、愛だとか性欲だとかと、 夏服を着た若い女に目が行ってしまうこととは、 まったく別の問題なのだと自信を持って言えるようになって はじめて、この気持ちについて語れるのだ。 それを初めて表現にしたアーウイン・ショーという人は、 やっぱり優れた作家だということになる。 この「つい」には、悩まされたものだ。 かつて総理大臣だった村山さんが、演説をしているときに、 眉毛に気を取られてしまうのも「つい」だ。 原爆の悲劇を描いた『はだしのゲン』の、 あえてグロテスクに表現された死体を、 悲劇としてではなく好奇心の対象として じっと見つめてしまったのも、「つい」だった。 「つい」の処理は、誰も教えてくれなかった。 ギリシャでもローマでも、男性の全裸の彫像があるけれど、 肩や顔やくるぶしよりも、「つい」ちんちんに目が行く。 大きさやら、かたちやら、見ないように見て、 しっかり記憶してしまったりする。 ヌード写真があって、そこに毛があれば、 全体をさっと見て、「つい」毛を見る。 夜明けに路上にひろがるゲロを発見したら、 「つい」内容についてもうちょっと知ろうとしてしまう。 どうすりゃいいのだ、この「つい」を?! 一般的には、「つい」はイケナイことになっている。 姦淫の心を持って女を見たら、 旧約聖書の「十戒」に背いたことになってしまうから、 たいていの人は 「いえいえ、なんにも思っていませんってば」 ということにしている。 嫉妬深い恋人なんかがいたら、あらゆる場面で 「つい」のチェックをされることだろうから、 男(女もか)の視線はどんどん不自然になっていく。 ぼくも、若いときから、このことについては それなりに考えてきたように思う。 深くはないかもしれないけれど、考えてきた。 そして、いつのまにか、結論のようなものが見えた。 「つい」はしょうがない。 いくら思っても、いくら見ても、いいのだ。 理性ですべてが制御できるなどという考えが間違いだ。 よからぬことを考えたと思ったら、 「つい」の後に、理性で整理してやればいいのだ。 その段階で逸脱が起こったら、 犯罪として裁かれることはあるかもしれない。 そりゃ、裁かれたらいいさ。 思っているだけなら、マルキ・ド・サドばりに 荒唐無稽なまでの悪徳も猥褻も許されると、ぼくは思う。 それを実行した場合には、社会のルールに従って それ相応の罰を受けるというものさ。 片思いは罪にならないけれど、ストーカーは罪。 ダビデ像のちんちんを「つい」見るのはいいけれど、 それを指さして凝視したら、軽蔑される。 夏服を着た女たちを、追いかけていくのでなければ、 夏服も、女も、男も、幸せってものだと思うんだけどね。 「つい」に悩む若き男性諸君、 キミの理性的な恋人に、これを読ませたまえ。 |
2001-05-29-TUE
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