ITOI
ダーリンコラム

<勇気という不思議な言葉>

ううっ。
もうじき更新時刻だ。
なんとか、書きはじめよう。
いま、早番のもぎカエル部長が野尻湖に行ってるので、
ハリさん(推定体重250キロ)が、更新してるんだ。
(もぎ註:いや、きのうの夜帰ってきたから、早番はワタシ。)

えいっ。

男の子だったら、こどもの頃に、
どれだけ高い所から飛び降りられるかを、
競ったことがあるだろうと思う。

小川を跳び越えること。
ゴミ箱やら机の上から飛び降りること。
気味の悪い虫を手でつかむこと。
大人たちに叱られるようなことは、
たいていは「ガキの競技」として成立する。

よりよくできるやつは、
勇気があるということになっていた。
踵の骨にじーんとくる痛みは、勇気の代償さ。

ところが、こどもたちは、しだいに、
そういうことは勇気とは言わないのだと知るようになる。
それは、勇気でなく、無謀であり、蛮勇というものだ、と。

そうか、と、なんとなくわかったような気になって、
「いままで勇気だと思っていたのは、蛮勇だ」と、
心のなかで整理してしまう。

しかし、では、勇気と蛮勇のちがいは、
どうなっているのだろうということについては、
あまり考えるチャンスを与えられていなかったように思う。
大人たちは、
みんながイジメをやっているときに、
「やめろよ」ということとか、
電車のなかでお年寄りが立っていたら、
恥ずかしさがあっても声をかけて席をゆずるとか、
例をあげて説明してくれたようにも思うけれど、
それは、あまりにも「俯瞰図」のようで、
勇気というものが「ある」ということについて、
教えてもらえたような気はしなかった。
・・・それは、勇気のことではなく
「ルール」や「倫理」ということを、
教えているだけではなかったろうか。

教える大人のほうだって、勇気という言葉の、
芯をつかめている実感がないのではないか。

ぼくも、うまく説明できる自信はないのだけれど、
勇気というものが「ある」ということと、
それはとても大事なものだということは、
時々、思い出したりしている。

倫理や道徳やといった律の問題でなく、
もっとひとりびとりの人間の可能性に関わるような、
素敵なものとして勇気ってものはある。
ぼくは、その感じを「野球」のなかに見つけたものだ。
これは、恥ずかしさをこらえて
老人に席をゆずるというようなものとは、
まったくちがうので、立派そうだったり、
ほめられるようなことでは、もちろんない。

さて、
プロ野球をテレビ観戦するときに、
硬球を手で持って見るといい。
その硬いボールを、時速140キロの速度で
投げるところから野球はスタートする。
「その硬いボール」というものを、
手に持ってテレビを観ていたら、
野球という一見のんびりした競技が、
生死さえもすぐ近くに意識するような
「オソロシイ遊び」であることが実感できるだろう。

そのボールを、よろしかったら、頭とは言わないけれど、
肩とか肘のあたりに数メートルの距離から、
誰かにぶつけてもらったら、もっと理解しやすいだろう。
オソロシイのだ、普通の人間には。

では、硬球を使って野球をやっている人々は、
これをオソロシイと感じていないのだろうか?
あらためて質問をしたら、たぶん、
「そんなこと言ってたら野球できないですから」と、
答えるだろうと思う。
だが、我々と同じ種類の生き物であるはずの
野球選手たちが、飛んでくる硬球を
ほんとうに怖くないと思っているのかは、
選手自身にもわからないのではないかと、ぼくは思う。

よくよく野球を観ているとわかってくるのだが、
好調の選手と、不調の選手では、
硬い球が飛んでくるということに対する
恐怖感がちがうのである。
おそらく、無意識のところで、
危険をさけようとしているのが、不調の選手である。
好調の選手には、危険をどうこうしようというイメージが
見えないのである。
野球の選手だって、生身の人間だから、
危険を避けようとするのが自然なはずである。
しかし、その危険の可能性をしっかり考えていたら、
もともと野球なんかやっていられないのだ。
危ないものなんだから、あんな硬い球を投げたり打ったり。

無意識な人間としての自然の部分を超えて、
選手たちは競技に参加しているのである。

だから、最近の野球では内角の、
打者の身体にぶつけるような球を投手に投げさせて、
「危険」を思い起こさせ、
敵を自然な人間にしてしまうという戦術もある。
怖がるのが「ふつう」なのだ。
打者を、そのふつうの状態にしてしまえば、
打ち取りやすいというわけだ。
危険を避けながら打つ、なんてことはむつかしいのだ。

荒れ球の投手が相手打者からいやがられるのも、
「よけなければならない可能性」を考えながら、
対峙しなければいけないからである。
しかし、危険な球を投げてくるピッチャーはいるし、
わざとでなくたって、デッドボールはある。

それを知っていても、「よく打つこと」に集中できるのが、
勇気というものの正体なのだと、ぼくは思ったのだ。

やっと勇気に、話がもどりました。

顔面が変形するほどの死球を受けて、
長いこと入院していた選手が、復活して活躍したりすると、
ぼくは心から尊敬してしまう。
(この頃の、巨人の村田捕手とかね)
彼らが、明らかに持っているものが、勇気だ。
広島の前田選手とか、巨人で言うと仁志選手とかも、
打席ごとに勇気を感じさせる選手だ。
(他にも、たくさんいるのだけれど、
いま思いついた名前として例にあげただけです)

ほんとうに自分の全力を出したい時には、
危機回避という概念そのものを忘れる
キチガイな瞬間が必要なのだと思う。
それは、不自然で、
非人間的であるように思われるだろうが、
その不自然こそが、
なにより人間的な「勇気の正体」であると、
ぼくは思ったりもしているのである。

おだやかでみんなが納得するような、
自然で理にかなった安全なことばかりでは、
野球という遊びも成り立たない。

「ほぼ日」のようないかにもおだやかそうな場で、
こんな話をしているのも、ヘンかもしれないけれど、
ぼくらの仕事にだって、やっぱり勇気ってものが
必要なんで、さ。

最近発見したんですけど、
あなたのメールの中に
「せっかく」と「がっかり」という言葉は、ありませんか?
この対になったふたつの言葉(新係り結びと命名)は、
「ほぼ日」をつまらなくするためにとても役立っています。
『せっかく楽しみにしていたのに、がっかりです』とかね。
これ、アホな母親が、子供を叱る時のパターンじゃん?
これで、すくすく育つ子供がいるわけないでしょう。
そういうデリカシーのない文句が来ないように、
気をつけて編集をするようになったら、
ぼくらもいい打球を飛ばせなくなると思ったので、
勇気のために、勇気を出して、
ここで言っておくことにします。

◆『せっかく・がっかり』の新係り結びは、禁止します。

ありゃ、こういう終わり方になっちゃった。
これは、このままぐっと踏み込んでバットを振ります。
空振りしたっていい。
スイングスピードが勝負でえい!

2000-09-04-MON

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