ITOI
ダーリンコラム

<吐く。>

このところ、「吐く」という表現が気になっている。
先日観てただただ感心してしまった宮崎駿さんのアニメ
『千と千尋の神隠し』でも、
スペクタクルシーンとして「吐く」表現があった。
川(河川)の神様が、
爆発的に汚れを吐きだす場面が描かれていた。
論理や思考を超えての内臓的な感覚と
言いたかった映画だけれど、
この場面がいちばん内臓的に凄かったかもしれない。

「吐く」が妙に気になりはじめたのは、
しまおまほのマンガ『女子高生ゴリコ』だった。
主人公のゴリコは、苦しみもせず、とにかく吐く。
なんか、脳で何か整理をする前に、
ボディが「吐く」という答えを出しちゃってるのだ。
ゴリコの周囲の登場人物も、ゴリコが吐くことを
日常のひとつの光景として当然のように見ているらしい。
この「吐く」ってことが、自然に表現される時代って、
どういうものなんだ?
そんなことを、考えたのでありました。

そういえば、とすぐに思いついたのは、
若い子たちがひんぱんに口にする「むかつく」だった。
自分ちの娘が「むかつく」と言っていたのを、
ぼくはやめさせた憶えがある。
「むかつくって、おまえ、病気だぜ。
 それって、身体弱すぎるよ、怒りを表すにしてもさ」
というようなことを言ったっけ。
若い人々が、さまざまな怒りを、
いちいち「胃」やら「食道」で受け止めちゃダメじゃん。
それじゃ、勝てないじゃん。
前の世代の若い人は、同じような時に、
「頭にくる」と言っていた。
これも、壊れやすい脳って感じで、
どうかとは思うんだけど、まだその時代の若者は
頭で処理しようとしていたのだろうかねぇ。

ま、「頭にくる」は、その後、
ありもしない「鶏冠(トサカ)にくる」に変化し、
やがて、過剰に頭にきた結果「キレル」ことになり、
「キレル」と逆に奇跡を呼んで逆転勝ちするぞ、
というような時代劇的なオカルトの世界にたどり着いた。

ま、キレルと強いってのは、
人間社会の規則から、
動物社会のルールに変えてしまうってことだから、
ある意味では強くなったようにも見えるだろうけどさ。

さて、「吐く」なんだよなぁ、いまって。
思えば、「吐く」が象徴的に表れたのって、
サルトルの『嘔吐』が最初だろう。
あれも、いまごろになって思うと、
直接的な身体反応についての文学だったと
言えないこともないんじゃないかねぇ。

それから、「吐く」についての表現は、
どんなふうに変化していったのか、
ぼくにはよくわからないけれど、
20世紀の終わり頃から21世紀にかけて、
「吐く」は、日常のなかに景色として根づいてきた。
そういえば、「ゲロゲロ」って小さい流行語もあったよね。

「吐く」は、消化器の事件である。
生き物は食物を取り入れて、栄養として消費し、
そのカスを排出する。
それを健康な生き物の営みだとすると、
「吐く」というのは、いったん取り入れかかった食物を、
消費する前に「入力した口」から排出する運動だ。
「いらねぇよ!」とか「返すぜ!」ということだ。
「消費できません」とも「壊れちゃいますから」とも
言えるようなメッセージだ。

それを、「せっかくだから」と消化(消費)しろというのが
いままでの考え方だったのかもしれない。
かつての価値観からすれば、
入力した栄養を返却するというのは非常識だ。
「要らなくても、もらっておきなさい」と、
いままでの社会なら言うだろう。
だから、吐く前の状態で、
「返却するか否か」を話し合うことになったら、
きっと
「そのまま飲み込んで無理やりにでも消費するべき」
という結論にさせられてしまうだろう。

だから、ルールを破って「吐く」のだ。
あたりが汚れようが、汚物まみれになろうが、
話し合ってる場合じゃないよ、というくらいの
強い拒否が「吐く」になるのだ。

いま、『女子高生ゴリコ』のような若者ばかりでなく、
大人たちも吐きはじめている。
従来の政治も、これまでの栄養も、過去の価値観も、
かつての倫理も、システムも。
いいに決まってると思わされてきた栄養が、
消費されることなく、吐かれているように見える。

こういう時代に、ぼくは、カロリーの高いものは
人体に受け付けられないと思っている。
このごろ、「ほぼ日」の内部で言っている
『軽く・濃く』という企画の処方箋は、
無意識でだけれど「吐く」時代の方法論なのだと思う。

げ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ

2001-07-16-MON

BACK
戻る