ITOI
ダーリンコラム

<裏インターネット的>

『インターネット的』っていう本を書くときに、
気になってはいたけれど、
あんまり触れないようにしていたことがあった。

「リンク」「シェア」「フラット」という三つのカギ。
そして、もうひとつの「グローバル」。
これが、「インターネット的」ということを
ぼくなりにまとめた考え方なのだけれど。

「無限につながりあうリンク」
「情報をわけあうシェア」
「上下の関係がこわれるフラット」
そして「国境があいまいになるグローバル」
というふうに簡単に言ってしまうのでは、
せっかく苦労して本を書いた意味がないんだけど、
ま、おおむねそういうことだ。

素晴らしいことだとは思う。
いままでの固定的な力関係がずるずると壊れていく。
そして、いちばんほんとうに輝いているものが、
世界的な舞台に一気に駆け上がることもできる。
「インターネット的」ということが、
おもしろいのは、そういうところだ。
上からの「構造改革」でなく、地表に近いところで、
あらゆることが変化していくことだろう。

だが、これは「インフラ」の部分についてのことなのだ。
工業的な意味でのインフラではないけれど、
システムとして、概念としてのインフラだと思う。
この「インターネット的」なシステムに、
どんな内容(コンテンツ)を流すのか、
どういう世界観を乗せるのか、
どんな幸福観、人間観で、これを使うのか、
そういったことこそが問われるはずなのだ。

だから、書籍の『インターネット的』のなかでは、
たくさんの部分を、
おおげさに言えば「ぼくなりの哲学」に費やしたつもりだ。
だが、わざわざインターネット的の悪用法について、
書くのは、控えたつもりだった。

既得権益を持つ大きな集団が、大きなコストをかけて
デマを流すことよりも、
ずっと効果的に効率的に(しかも安く)、
たったひとりの個人が「悪意」をばらまくこともできる。
その「悪意」が最終的に退けられることがあるとしても、
それをするためのコストは莫大なものになる。
この「悪意」を「善意」と言換えても、
「誤解」と言換えても、仕組みに関しては同じだ。

だからこそ、「ほぼ日」というものも成り立っている。
こんな吹けば飛ぶような人間たちで、
昔だったらできっこないようなことをやっている。
これも、ほんとうのことだし、大切なことだ。

言いたくはなかったのだけれど、
9月11日に起こった連続テロ事件と、その後の展開は、
まさしく「裏インターネット的」とも言うべき、
「裏未来」の社会の仕組みを明らかにしてしまった。

航空機をつくることには莫大なコストがかかるし、
それを空に飛ばす企業を成り立たせるには、
想像もつかないほどの大きな経済や政治が必要だろうが、
それを乗っ取るためのコストは、ほとんどかかっていない。
さらに、その飛行機を『武器』に変えて、
たった数人が「戦争」をしかけることさえできてしまう。
情報は、前の時代のシステムから学ぶ。
役割を分担して、ひとりの仕事を最短距離で実行する。
国境を越えて実行し、国境を越えた影響をあたえる。
すべて、「インターネット的」の裏側なのだ。

「仕事」の結果は、発達したマスメディアを伝わって、
世界中に報道され、
「たったひとりでもできる戦争」というイメージが、
黒雲のようにイメージの空を覆い、
世界中の人々の思考を消極的にさせ、行動を鈍くさせる。

いちばん効果的で安価な方法を、
これからは誰もがとろうとするのだということを
覚悟しなくてはいけないのだと思う。
キツイけれど、そういうことになるのだろう。

当然、仕掛けられた側だって、似たような方法をとる。
ニューヨークのある地点の映像が、
強いパワーのある「武器」として利用され、
その次には、中東のある地点の映像が、
「世界を説き伏せるための武器」として
どんどんつくられていくだろう。
「相手の殺した無垢な民」の映像が、
「相手の理不尽な攻撃による被害」の映像が、
両サイドから発信され、イメージの武器になっていく。

ぼくらの「世論」は、こういう情報を元にして、
形成されていくだろう。
だって、まったく元のないところに
「考え」は生まれないのだから。
それまでにインプットしたなんらかの情報を
自分なりに処理して、自分の「考え」をつくるのが、
普通の人間にできることではあるけれど、
いちばん正しいこと、確信を持てることに至るには、
いったいどれだけの情報が必要になるのだろうか?
Aに対してはBの反論があり、それにCの情報が加わると
Dの意見にうなづきたくなる・・・
なんてことのくり返しは、当然のことだろう。
専門家という、そればっかり研究している人々だって、
他の専門家からのツッコミで立ち往生するのだから。
しかも、その「考えの元になる情報」も、
誰かの「編集手続き」を経ているものである。

作られた世論や、演出された抗議などが、
焼夷弾のようにばらまかれて、
人々の上に降り注いだときに、
ぼくらの感情は動かざるを得なくなって、
やがて、「考えが定まる」のかもしれない。

こういう状況のなかで、感情的にだったり、
いままでの貧しい知識を元にしてだったりして、
ぼくはぼくなりの考えを持ってもいるのだけれど、
自信なんかありゃぁしない。
だから、同じ場にいて、ともだちとして反論できたり、
相手の意見を冷静に聞いてくれるような少ない人と、
「ああ、そうか、ちがうか」とか言いながら
開陳する以外には、公表するつもりはない。
わからないことは、言わない。
これは、「ほぼ日」の基本的な原則になっている。
(いや、たいしたことないことについては、
 ホラもウソも、わからないことも、
 さんざん言っているんですけどね)

かつて、学生運動が華やかな時代に、学校のなかは、
党派と党派があちこちで小競り合いをしていた。
時には暴力も混じっていたし、論争というには
幼稚すぎるような言い争いもおおかった。
しかし、論争なのだから、どちらがより正しいか、
論理的に語り合えば、多少のヒントくらいは
見えてくるものだと、18歳のぼくは思っていた。
しかし、こういった「論争(?)」には、
とんでもない原則があった。
それは、どちらの党派の論理にせよ、
論争の現場では「年長者が勝つ」というものであった。
年長者のほうが、「いっぱい知っていたり」
「ケンカのやり方」をわかっていたりするのだ。
どっちが正しいかより、どっちが勝つかのほうが、
重要だったのである。
勝ったほうに、人は付く。そういう場に思えた。
なんか、ケンカに負けた少年が、
「中学生のお兄ちゃんを連れてくるぞ!」と
泣きながら叫ぶようなシーンがたくさんあった。

ただ、どんな問題を考えるときにも、
ぼくは、これだけは守りたいと思っていることがあって、
その原則を、今度の場合にも当てはめているつもりだ。
『他人に断る権利をあたえない考えは、認めない』
たった、これだけのことだ。
自分も自由でありたいように、他人も自由なのだ。
他人が自分とちがうとわかった時に、
別れるか、遠ざかるか、それでも付きあうか、
道はいろいろ考えられるのだけれど、
「オレと同じにしろ」と強制する人を、ぼくは認めない。
そういう意味では、今度の「タリバン」も「ブッシュ」も、
どちらも、ぼくの考えとは反対だということだ。

そういう意味では、
「わたしに賛成する以外の道を行くものは、敵だ」という
考えの人については、彼らのメッセージが、
「平和」であれ「愛」であっても、認められない。
(また、この部分にヒステリックな反応があるかな?)
オレが守るものは、オレが決める。
「愛」なんていう名前や概念を守る軍隊になんかならない。
いちばん好きな「自由」にしたって、
どういう自由を大事にするかは、オレの自由だ。
「パーマネントはやめませう」のスローガンや、
「ゼイタクは敵だ」のプラカードが、
輪郭だけだけれど、あちこちに見えてきている。
そんなもん、踏みつけて踊ってやる!
他人の自由を認められない人間に、
自由を語る資格なんてない。

ぼくは、あらゆるものが宗教になってくると
言っているのだけれど、「ほぼ日」だってエルメスだって、
ある意味では宗教だし、ひとつの家庭もひとつの宗教だ。
同じ幻想を共有しているという意味では、宗教だ。
なんでも宗教になっていくことは、しかたがない。
だがしかし、「出入り自由」であるということが、
ぼくの考えるいちばん大事な要素である。
出ていくものを止めない。
これがないのは、「断る自由」を認めないということで、
これがあるかないかが、ぼくには最も重要なことなのだ。

さて、「インターネット的」に、
「裏インターネット的」という影の面があることを
いやというほど知らされている現在だけれど、
表と裏の、どちらか一色になってしまうというのは、
自然の法則に反するから長持ちしない。

さっき、読者の方からもらったメールのなかに、
パキスタンにいて、世界中から来たジャーナリストが、
実際にどういう報道をしているか、
それを現地の勢力がどんなふうに利用しているかを、
おちついた筆致で日記にしている人のサイトが
紹介されていた。(ありがとう。とてもよかった)
URLの表示については許可をとってないので
遠慮しておくが、
「日・パ旅行社」という、これまでは「ガンダーラの旅」や
「獅子座流星群を見るツアー」なんかも企画していた
旅のガイド会社らしいから、
検索エンジンで自分で探しなさいな。

(googleでもYahoo!でもすぐに見つけられました。
 まだ27307アクセスしか記録されていないというのは、
 あまりにももったいない!
 新聞社、雑誌社、テレビ局の皆さん、
 どうぞ、ここからの情報も参照してみたら?)

この会社のサイトが、「緊急レポート」というページで、
「オバハンの日記」という詳細な現地レポートをしている。
読むと、「やっぱりなぁ」という気持ちも多少あるが、
やっぱりあらためてびっくりする。
いままで報道されていた状況って、
いったい誰が演出しているんだ?
こういう騒ぎで、無闇に不安をかきたてて
ビジネスをしている人たちって、
ホントにいっぱいいるんだなぁ。

こういうページの存在も、「インターネット的」なのだ。
裏インターネット的の邪魔になるような、
表のインターネット的の力が、ここにあるように思った。
確信犯的に仕事をしている両陣営の指導者に
「署名」を集めて送るより、ぼくは、
ここに記されている「中村哲先生」という
見ず知らずの人に対して何かするほうがリアルだと思う。
(むろん、断る権利は大きくあなたにあるし、
 それをしない人であることは、
 別に恥ずかしいことじゃないことは言うまでもない)
何かしないと自分が不安定になって困るという方は、
自分の気持ちのために、ここを見てはいかがだろう。
(ぼく自身にも、それに似たような気持ちはある。
 自分の親の法事を面倒くさがっているような人間だけど)

「他人の自由を認められる人の目」での、
インターネット的なさまざまな活動が、
これから表面化してくることだろうと思う。
世界中の火薬を情けなく湿らせてしまうような、
「リンク」「シェア」「フラット」「グローバル」が、
じわじわといやらしく拡がっていくことを、祈ります。
祈らない人がいても、いいと思います。

大好物の甘いものを食べたいと思いつつ、
こんなことを書いていました。
体内の脂肪を減らすために、糖分を控えているのでね。

2001-10-15-MON

BACK
戻る