糸井 外国のもので
可士和くんのヒントになったこととか、
個人として勉強したことはありますか?
佐藤 いまの
コミュニケーションのやりかたって、
Macintoshから学んだんです。
博報堂に入ったその年、
今から十五年以上前に、
冬のボーナスを全額はたいて、
給料もつぎこんで、
Macintoshを買いました。

コンピュータを起動した時に
アイコンが下に並んだんですよね。
あれを見て
「広告ってこれじゃん」と思いました。


内容が絵ですぐわかるというか、
世の中で
「ブランドが立っている」
といわれるのはそういうことかなぁと……
コマーシャルはそのアイコンが
動いていればいいんだと、

ぼくは大阪に飛ばされた時から
しきりにいっていたのですが、
誰もわかってくれなかったんです。
だから、今も、
いってるんですけどね(笑)。
糸井 そういうことをいうと
「つまり、おまえは、
 ものごとを考えたくないんだな」
といわれる可能性があったんだ。
佐藤 最初から思っていたことを
Step WGNで
ようやく具体化できたんです。

テイストとタッチとデザインと音楽で
コミュニケーションできれば
物語は要らないというか……。
糸井 確かにモノも人もアイコンですよね。
すごい短い時間で
それらを峻別できるわけですから。
佐藤 人間どうしが
顔を峻別する能力って、
すごく高いですよね。
糸井 なるほどね。
だから、アイコンを使うことは
「意味」よりも
「人間」に依拠しているわけか。
佐藤 はい。
だからデザインは
言語以外の言語というか……
あんまりそういうことをいっていると、
大学の授業でいわれる
古くさいことそのまんまに
なっちゃうんですが(笑)。
糸井 大学の授業って、
ちゃんときけば
おもしろかったはずですよね(笑)。

学問の理論としては
わかっているけど
実地で使えないというものが、
すごく多いというだけだから。
佐藤 そうなんですよね。
糸井 人の歴史のおもしろさは
十字架のアイコンに
あらわれていると書いたことがあります。
「はりつけにされたキリストを
 象徴するアイコンを大事にする」
この逆説のすごさというか……。
佐藤 ぼくはあんまり
キリスト教のことを
わかっていないんですけど、
大学生の時に
「十字架みたいなものが
 デザインできれば死んでもいい」

と思っていました。

ああいうことが
究極のデザインだと感じていましたから。
十字架一発で、
人は涙を流したりするわけですよね。

糸井 うん。
アイコンが、
どんどん物語を
吸いこんでいっているわけで。
佐藤 はい。
だけどその物語を
十字架というアイコンにおとして
みんなが
コミュニケートしているわけだから、
なんか、そういうことを
やりたいなぁと学生の頃に思ってました。
糸井 それはやっぱり、
ぐだぐだと「意味」に
がんじがらめになっている人たちに
不自由さを感じてたんだろうねぇ……。
佐藤 大学生の時は
絵を描いたり立体を作ったり
音楽をやったりしていて、
自分はそのなかでは
グラフィックデザインが好きだ、
と思っていたんですが、
おそらく当時から
アイコンに魅かれていたと思うんです。

ポップアイコンを
アートに持ちこんだ
ウォーホールをすごくおもしろいと思ったり、
すごい写実的な絵画とかには
あんまり惹かれなかったり。
糸井 なるほど。
引き算に引き算を
かさねたものが好きだった?
佐藤 意味を集約したものに
すごく魅かれたんです。
いいなと思うものはぜんぶそれで。
糸井 ということは、
絵の練習とかは、
あんまりしてないんですか?
佐藤 トレーニングとして
すごく描いていたんですけど……
なんかそのうちに
「マーク」を
描いちゃったりするわけです。


途中で
「これは筆で描く必要がある?」
と思ったり。
もちろん絵を描くことは、ぼくにとって
考えるトレーニングになっていたから
とてもよかったなと思うんですが。
糸井 おもしろいなぁ。
そういう素地って、
どういうふうにできるんだろうねぇ。

確かに素直に生きれば
「アイコンに動かされている自分」
に気づくよね。
雑誌の表紙はいまだに美人の顔だけど、
あれはヘタな工夫や
意味を超えたアイコンだから、
効果がありつづけているんですよね。

佐藤 そうですね。
ですからもう、最近どんどん
「余計なことはしないでいい」
と思うようになって、
ものすごく素直に
考えたものばかりやっているんです。

幼稚園も、
結果的にはふつうでないものが
できるんでしょうけど、
それは幼稚園って
なんのためにあるんだろう、
ということを
素直に考えた結果なんですよ。

大貫さんから学んだんですが、
仕事は
「それってそもそもなんなの」
を考えればだいたい答えは出ますね。

「極生」なら発泡酒は
なんのためにあるかを
考えればできましたし、
幼稚園は、そもそも子供が
はじめて接する社会だというか、
遊ぶことをとおして
いろんなことを学ぶとか──
人のオモチャを取ると怒られるし、
あんまり高いところから
飛びおりたら足が痛いとか、
ともだちとケンカをしてしまうだとか──
そういうことを考えて、
幼稚園は「遊ぶ場所」なんだと思いました。



場所も遊具も必要なんだけど、
お金はそんなにないとすると、
園舎そのものが遊具になっていたら
ひとつで済むじゃないか?
そういう素直な計画を立てています。

ピンクの象の置きものがあるぐらいなら、
階段があったほうが
よほどたのしいというか、
「これは遊ぶものですよ」
と与えられちゃうと想像力は生まれないし、
かといって、サラ地だと
コンセプチュアルすぎますからね。
場所そのものが
キャンバスになってほしいんです。

(明日に、つづきます)
2005-04-20-WED
もどる
もどる
©2005 HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN All rights reserved.